台湾の選挙史
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台湾の選挙制度の萌芽期は日本統治時代に実施された州、市、街、庄の議員選挙に遡ることができる。三一法により選挙権は25歳以上の年間納税額5円以上の男性に限定し、400万の台湾住民の中で僅か28,000人に選挙権が付与されたに過ぎない制限選挙であるが1935年に初めての協議員選挙が実施された。1939年には第2回選挙が実施されたが、第二次世界大戦の激化に伴いその後の選挙は実施されることなく日本統治時代は終了した。 1945年に中華民国に接収された台湾は、翌年台湾省行政長官公署による各郷鎮市民代表の普通選挙が実施された。これは宣誓を行った240万の住民が参加したものであり、市民代表を選出し更に間接選挙で各県参議員を選出するものであり、1,180人が立候補、30名が当選している。 1950年代の台湾での選挙は、普通、平等、直接、無記名による選挙が実施された。選挙権は満20歳以上の公民権停止及び禁治産者を除く全ての台湾人に選挙権と被選挙権を認める内容であり、一人一票の投票権を直接及び無記名で投票するというものであった。 しかし、民主化以前の台湾では、地方選挙の多く、たとえば省議会や直轄市市議員、県市長、県市議員、郷鎮市長、郷鎮市民代表、村里長の選挙が実施されたものの、本来行われるべき国会(国民大会、立法院、監察院)や台湾省の首長および省と同格である直轄市市長の選挙が実施されなかった。国会については国政選挙であるが、蒋介石・経国政権は台湾だけでの国政選挙を拒否した。というのも、中華民国は全中国を代表する政府だと主張しており、台湾だけで選出された国会の選出は中華民国の存在理由を否定するものとされたからである。省については、特に台湾省が中華民国の実効支配領域とほぼ重なるため、民選の台湾省長が総統の権威を削ぐ恐れがあったからである。さらに、台北市は当初、非国民党員の市長が選出された時代もあった。しかし、国民党政府は、臨時首都でのこうした事態を快く思わなかった。そこで、台北市長選挙を中止する口実として、台北市を省と同格の直轄市に指定してしまった。 総統民選以前の総統選は7度実施されている。これは国民大会を通した間接選挙であり6年に1度実施されるものであった。1996年以前は大陸地区の代表が半数以上を占め、また大陸地区で選出された国民大会代表の改選が行われなかったため、定員3,045名の国民大会代表が、第7回では病没などで1,090人にまで減少していた。
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