その後の運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/14 07:32 UTC 版)
「王立バイエルン邦有鉄道PtL2/2型蒸気機関車」の記事における「その後の運用」の解説
2両が1942年に工場へ売却され、1両は第二次世界大戦で破壊され、1両(98 304)は大戦後オーストリアに残された。この機関車はオーストリア連邦鉄道(オーストリア国鉄)により688.01形とされたが、1959年に運用終了した。 残りの機関車は西ドイツ国鉄に引き継がれたが、ほとんどは1950年代に運用終了した。98 307は1963年までシュパルトとゲオルゲンスグミュントの間で使用され、「シュパルトのヤギ」(Spalter Bockel) と呼ばれていた。この車両は、ニュルンベルク交通博物館からの貸し出しでノイエンマルクト - ヴィルスベルクのドイツ蒸気機関車博物館(独: Deutsches Dampflokomotiv-Museum)に保存されたが、走行可能ではない。また1925年から、PtL2/2型4515号がニュルンベルク交通博物館に保存されている。この機関車はカットモデルとなっていたが、2005年10月に起きたニュルンベルク西機関区(ドイツ語版)の火災に巻き込まれてしまった。
※この「その後の運用」の解説は、「王立バイエルン邦有鉄道PtL2/2型蒸気機関車」の解説の一部です。
「その後の運用」を含む「王立バイエルン邦有鉄道PtL2/2型蒸気機関車」の記事については、「王立バイエルン邦有鉄道PtL2/2型蒸気機関車」の概要を参照ください。
その後の運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 10:07 UTC 版)
昭和20年代半ばに調査したところ、最初に架設された上り線の橋梁について、橋脚の地盤沈下が認められたこと、煉瓦自体は強度があるが目地のモルタルは用をなさなくなってきていることなどから、列車運行の安全を保つために改良工事が必要であると判断された。ちょうどこの時期に、この区間では複線をさらに増設する工事を実施していたため、既に完成済みであった下り線用の上淀川橋梁に一時的に列車の運行を移して、その間に既設橋梁の橋脚を撤去して、鉄筋コンクリートで造り直す工事を実施した。既設の井筒の上部を撤去してその周囲に杭を打ち込み、新たな橋脚はこの杭の上に構築する方式とした。1953年(昭和28年)2月に工事に着手し、突貫工事で施工を実施した。 この年9月25日に台風13号が襲来して大きな被害を与え、橋脚の改築工事にも影響が出た。この台風を受けて建設省が淀川河川改修計画を推進することになり、淀川の橋梁に付いて計画高水位に対して桁下余裕を2.2メートル確保するように要請が行われた。上淀川橋梁はこれに抵触することになり、また下り線橋梁に列車の運行を移して改修工事をしている時期であったことから、これに合わせて大至急橋桁の扛上工事も実施することになった。こうして1954年(昭和29年)3月から8月にかけて、約1.4メートルから1.7メートルの扛上工事を2回に分けて実施した。 こうした工事を終えて上り線橋梁に列車の運転を再開した。低水敷の橋脚は補強を要しないと判定されていたためそのままで運転を再開したものの、運転を再開後に再度調査を行ったところ、補強をしなければならないことになり、1955年(昭和30年)12月から着工して1958年(昭和33年)7月までかけて施工した。貨物線に関しても、この際に橋桁の扛上工事が列車運転の間合いで実施された。1.24メートルから1.57メートルの扛上が実施され、これに合わせて前後も勾配を入れて取り付けた。 橋梁の改良工事は約2億8000万円、扛上に約1億2000万円、上り線低水敷橋脚の補強に10億8000万円、貨物線の扛上工事に7億8000万円を要した。工事費は建設省と折半された。 1971年(昭和46年)3月に淀川の工事実施基本計画が建設省によって改訂されたため、淀川の流心が一部変更されることになり、上淀川橋梁の下部構造の補強工事が必要となった。1979年(昭和54年)2月1日から8月19日まで、約4億円を投じて橋脚9基の周囲約16,000平方メートルの範囲に捨石やコンクリートブロックの設置を行って根固めを実施した。 建設から100年を経ると、縦桁の損傷や腐食が著しくなってきたため、2009年度(平成21年度)から順次縦桁上フランジの交換が施工されている。
※この「その後の運用」の解説は、「上淀川橋梁」の解説の一部です。
「その後の運用」を含む「上淀川橋梁」の記事については、「上淀川橋梁」の概要を参照ください。
- その後の運用のページへのリンク