その後の都市史概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 06:29 UTC 版)
「ライネ (ミュンスターラント)」の記事における「その後の都市史概略」の解説
1635年からこの地に住んでいたフランシスコ会修道士らが、1659年にかつての修道院(現在の旧市庁舎)にギムナジウム・ディオニジアヌムを設立した。 1759年には大火でファルケンホーフと70棟の建物を焼き尽くした。 1803年、ライネは、世俗化に伴い新たに成立したライナ=ヴォルベック侯領の首都・宮廷都市となった。この侯領は、ライネとメーズム、エムスデッテン、ノルトヴァルデ、アルテンベルゲ、ノイエンキルヒェン、ザルツベルゲン、シェプスドルフ、エムスビューレンといった集落からなっていた。しかしこの侯領は早くも1806年にベルク大公国に併合され、失われた。1811年から1813年までライネは、フランス帝国のリッペ県(ドイツ語版、英語版)の一部として統治された。 1815年にウィーン条約に基づいて、ライネを含むこの領域はプロイセン王国に併合され、新たに設けられたヴェストファーレン州(ドイツ語版、英語版)に編入された。その翌年にプロイセンに「郡」が設けられ、ライネはシュタインフルト郡に属すこととなった。 1844年、ミュンスターラントで最初の機械織りの織布工場が建設されたことでライネの工業化が始まった。この織布産業はその後最も重要な経済ファクターとなり、ライネは重要な食産業の中心地となった。 1850年にアルテンライネ、エルテ、メーズム、ライネ・リンクス・デア・エムスがアムト・ライネに統合された。 1855年には、初めての鉄道がライネとオスナブリュックとを結んだ(ハノーファー西鉄道)。この路線は1856年にはエムデンまでの路線(ライネ - ノルトダイヒ・モーレ線)が開通した。 1871年、新たに成立したドイツ国にライネも属した。 1899年8月11日、7年の工期をかけたドルトムント=エムス運河が完成した。
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