戦後の政治
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ヒューバート・ハンフリーは全国的に有名な政治家となったミネソタ人である。ハンフリーはまず1943年のミネアポリス市長選に出馬したが、数千票差で共和党の候補者に敗れた。民主党員として、その政治的な成功の最良の機会はミネソタ労農党の支持を掴むことだと考えた。フランクリン・ルーズベルトにも奨励されたように、労農党の他の党員も同じことを考えていたが、ハンフリーがワシントンD.C.に行ってこの問題を論じた後で合併が初めて現実のものとなった。20万人の支持母体がある労農党を単純に吸収するよりも、ミネソタ民主農民労働党の結党を提案した。1945年にはミネアポリス市長に選ばれ、その最初の行動の一つは従業員による人種差別に罰金を科する条例の提案だった。この条例は1947年に採択され、罰金はほとんど取られることがなかったが、市中の銀行や百貨店は雇用する黒人の数を増やすことで宣伝になることを認識した。ハンフリーは1948年の民主党全国大会で熱烈な演説を行い、民主党がその綱領に公民権政策を載せるよう勧めた。1948年にはアメリカ合衆国上院議員に選ばれ、1954年と1960年にも再選された。 1960年代初期、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア等黒人指導者が組織して行われたシットインや行進によって、公民権の話題が国の最高の問題になった。1963年、ジョン・F・ケネディ大統領は、ハンフリーが15年も前に上院に提出した考え方に多くを負った公民権法案を議会に提出した。この法案は1964年早くに下院で可決されたが、上院では南部の差別主義者が75日間も議事進行を妨害したために、その成立は困難を極めた。最終的に1964年6月、公民権法が成立した。ハンフリーはこれを自分の偉大な成果だと言った。1964年アメリカ合衆国大統領選挙ではリンドン・ジョンソンがハンフリーをその副大統領候補に指名し、ハンフリーは副大統領に当選した。ミネソタ州知事カール・ロルバーグ(ミネソタ民主農民労働党)は、ハンフリーの抜けた上院の議席にウォルター・モンデールを指名した。ハンフリーは1965年の北ベトナム空爆に疑問を表明し、これが原因でジョンソン大統領とは疎遠になった。ハンフリーは後にベトナム戦争におけるジョンソンの行動を弁護し、1967年頃に戦争反対を唱え始めた進歩派とは疎遠になった。1968年アメリカ合衆国大統領選挙では、ハンフリーがリチャード・ニクソンとアメリカ独立党候補者ジョージ・ウォレスに対抗して出馬し、一般選挙でわずか0.7%差で敗れた。ハンフリーは、ユージーン・マッカーシーが離職した1971年に上院議員に復帰した。 ユージーン・マッカーシー(ミネソタ民主農民労働党)は、1949年から1959年までアメリカ合衆国下院議員を務め、1959年から1971年は上院議員を務めた。強い信念と品位を保つ知識人としての評判があった。1967年、マッカーシーは民主党の大統領候補指名争いでジョンソンに挑戦し、ジョンソンの政策に対抗して反戦の綱領で出馬した。ニューハンプシャー州におけるマッカーシーの強い支持があり、ジョンソンが指名争いから去る主要原因になった。 民主党のウォルター・モンデールもジミー・カーター大統領の下で副大統領を務め全国的な知名度を得た。モンデールは1964年に指名された時から1977年に副大統領になった時まで上院議員を務めた。1984年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジェラルディン・フェラーロを副大統領候補として大統領選に出馬した。その結果は人気のある現職大統領ロナルド・レーガンの地滑り的勝利に終わった。2002年、選挙日の11日前に現職上院議員のポール・ウェルストーンが飛行機事故で亡くなり、モンデールは民主党の上院議員候補として出馬した。しかし、共和党のノーム・コールマンに対して2%差で敗れた。 1970年、ウェンデル・アンダーソン(ミネソタ民主農民労働党)が、ミネソタ州知事に選ばれた。アンダーソンは2年間分裂したミネソタ州議会で、公的教育予算の財源を地方固定資産税から州売上税に移し、酒類とタバコに物品税を付加するという、税と教育予算の改革を組み合わせた案の法制化のために働いた。これを成案させたことは「ミネソタ・ミラクル」と呼ばれ、大きな評判を呼んだ。次の数年間、議会は平等権修正条項の批准、厳しい環境法、労働者の災害補償と失業手当給付金の増加、低収入労働者に対する所得税の免除など「新リベラリズム」の法案を成立させた。雑誌の『タイム』はアンダーソンとミネソタ州を『ミネソタ州:機能する州』という題の記事で取り上げた。1976年、モンデールが上院議員を辞任してジミー・カーターの伴奏候補者となったとき、アンダーソンは知事の職を辞任して、副知事のルディ・パーピッチ(ミネソタ民主農民労働党)に渡したので、パーピッチは直ぐにモンデールの後の上院議員にアンダーソンを指名した。1978年の選挙で有権者はアンダーソンとパーピッチを選ばなかったので、この選挙は「ミネソタの虐殺」と呼ばれた。パーピッチは1983年に再度知事に選ばれ、1991年まで務めた。 ポール・ウェルストーン(ミネソタ民主農民労働党)は、1990年の上院議員選挙で現職のルディ・ボシュウィッツ(共和党)を、この10年間では最大の番狂わせとなった選挙で破り、上院議員に選出された。1996年には、1990年の再現となった選挙でボシュウィッツを再度却けた。ウェルストーンは進歩的行動派として知られ、その著書『田舎の貧乏人がいかにして権力を得るか:草の根オーガナイザーの体験談』で、ベターライス郡のための組織集団との作業を記載し、また『リベラルの良識:温情ある議題の再生』でも証明されている。ウェルストーンは1998年の大統領候補になる道を探り、「民主党の中の民主的派閥を」代表すると言っていた。2002年10月25日、ミネソタ州エベレスの近くで起こった飛行機事故で、ウェルストーンは、その妻、娘、3人の運動員および2人のパイロットと共に死んだ。 1998年に州知事に選ばれたジェシー・ベンチュラは海軍特殊部隊、プロレスラー、俳優、ブルックリン・パーク市長、およびラジオとテレビのキャスターという多様な経歴を持っている。ベンチュラは1期のみで職を去った。ベンチュラが選ばれた事はミネソタ独立党に対する国際的な注目を集めた。
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戦後の政治
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1865年の夏、アンドリュー・ジョンソン大統領は戦後の南部の状態を調べるためにシュルツを派遣した。シュルツがミシシッピ州で州兵を組織することを禁じたヘンリー・スロカム将軍の命令を承認したことから、ジョンソン大統領と喧嘩になった。シュルツの報告は、各州の諸権利を完全に保ったままの再加盟と、アメリカ合衆国議会の委員会によるさらなる立法の必要性の調査を提案していたが、ジョンソン大統領はこれを無視した。1867年から1868年にかけて、シュルツは『デトロイト・ポスト』紙の編集長となり、続いてセントルイスの『ヴェストリッヒェ・ポスト』紙のエミール・プレトリアスと共に編集者兼共同経営者となった。この年の冬にドイツに旅して、オットー・フォン・ビスマルクのインタビューを取った。1868年の大統領選挙では「再加盟拒否」に反対し、「正直な金」に賛成する発言をした。 1869年から1875年にかけて、シュルツはミズーリ州選出アメリカ合衆国上院議員を務め、アメリカ合衆国中西部に多いドイツ系アメリカ人の支持から共和党員としての政治的影響力を得た。議会では財政的な責任を追及する演説で大きな評判を取った。この期間にシュルツは共和党と袂を分かってミズーリ州で自由共和党を立ち上げ、1870年には州知事にB・グラッツ・ブラウンを当選させた。1872年、自由共和党大会を主宰したが、この大会ではシュルツの関税に関する見解は支持されず、また同年の大統領選挙ではシュルツ自身がチャールズ・フランシス・アダムズかライマン・トランブルを推したものの、結果的にはホレス・グリーリーが指名された。この選挙で新大統領となったユリシーズ・グラントのサントドミンゴ政策に反対した。ウィリアム・フェッセンデンの死後、シュルツは外務委員会の委員となり、グラントの南部政策や普仏戦争においてフランスに武器弾薬を売る政府の政策に反対した。1875年、オハイオ州知事選挙で健全な金を代表するものとしてラザフォード・ヘイズの選出を応援した。
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戦後の政治
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戦後、ハントンは以前の法律実務を再開し、政治に関わるようになった。バージニア州から民主党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出され、第43期から連続4期(1873年3月4日-1881年3月3日)務めた。この下院議員の間に、独立戦争恩給委員会(第44期)とコロンビア特別区委員会(第46期)の委員長を務めた。1876年アメリカ合衆国大統領選挙で問題の起きた幾つかの州の結果を決定するために1877年に議院法で作られた選挙委員会の15人の委員の一人に指名された。 ハントンは1880年の選挙では候補者に再指名されず、法律実務を再開した。その後ジョン・S・バーバーの死亡で生じたアメリカ合衆国上院の空席を埋めるために民主党員として指名され、その後の選挙も通って、1892年5月28日から1895年3月3日まで務めた。1893年から1895年はアメリカ合衆国の大学設立のための上院委員会で委員長を務めた。 1894年4月1日、あるいはその頃、ハントンは間接的に投票に関わる賄賂事件に巻き込まれた。院外活動家で元々ノースダコタ州の損害賠償要求代理人であるが当時はワシントンD.C.に住んでいたチャールズ・W・バッツが、ウォーレントンのハントンの留守宅に行った。バッツはハントンの息子エッパ3世に、審理中の関税法案について議論を提出することで、ハントンに反対票を投じさせれば、成功報酬25,000ドルを払うと告げた。この問題に関する上院調査委員会報告の抜粋は以下のようだった。 この申し出をエッパ3世は、その証言で説明しているように即座にまた断固として辞退し、全てはその父に伝えられた。ハントン上院議員は、その証言に見えているように上院における友人の一人に最初の機会を捉えて事態を明かし、如何なる方法においても取引に関わっていなかった。 バッツはサウスダコタ州選出の上院議員ジェイムズ・ヘンダーソン・カイルにも同じ法案に反対票を投じるよう賄賂を贈ろうとした。ハントンとカイルは最終的に全ての非難から解放された。 その後ハントンはウォーレントンで法律実務を再開した。1908年10月11日、ハントンはリッチモンドで死に、リッチモンド市のハリウッド墓地に埋葬された。
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戦後の政治
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「ジョージ・ストーンマン」の記事における「戦後の政治」の解説
1866年、ストーンマンはレコンストラクションの急進的な政策に反対するようになり、民主党に加わった。バージニア州ピーターズバーグで軍政府を管理しているときに、レコンストラクション中の他の軍政府よりも穏やかな政策を適用しているという評判を確立し、バージニア人の立ち直りの痛みを和らげることになった。ストーンマンは1866年9月に志願兵任務から解除され、正規軍の中佐の位に戻された。その後、ドラム兵舎に本部を置く第1軍事地区アリゾナ方面軍指揮官となった。この期間、インディアン蜂起の取り扱いのために論議を呼ぶ指揮官となり、1871年5月に指揮官職から解任された。
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