戦後の政治的キャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 02:05 UTC 版)
「オーガスト・ベルモント」の記事における「戦後の政治的キャリア」の解説
ベルモントは、戦後も民主党全国委員会の委員長として、「民主党の歴史の中で最も悲惨な時代」を仕切り上げた。1862年、ベルモントとサミュエル・ティルデンは、編集長のマントン・M・マーブルの助けを借りて、ニューヨーク・ワールドを主要な民主党の報道機関に育て上げるためにその株式を購入した。 1864年の『シカゴ・トリビューン』によると、ベルモントがロスチャイルドのニューヨークエージェントとして南部の債券を購入してしたのは、ベルモントが南部の大義を支持したためだとある。終戦後の共和党分裂の際、ベルモントはこれを利用して新しい党を組織し、1868年にサーモン・チェイス(1861年以来元米国財務長官、後に1864年に米国最高裁判所長官)を大統領候補に推した。 1868年の選挙でのホレイショ・シーモアの選挙での敗北は、後の自由共和党のホレス・グリーリーの悲惨な1872年大統領選挙の指名と比較すればまだマシな部類であった。 1870年、政府の汚職を浄化するための70人委員会が組織されると、民主党は危機に直面した。タマニーホールでの暴動は、ウィリアム・M・ツイードを打倒する流れへと動き、この際ベルモントは党の側に立った。 党首は当初チャールズ・フランシス・アダムズを指名する方向であったが、そこにきての有名な全国有数の新聞『ニューヨーク・トリビューン』の発行者であるグリーリーの指名であった。『ニューヨーク・トリビューン』は戦前・戦中・戦後にしばしば民主党に言及した候補者を「奴隷所有者」「奴隷ホイッパー」「裏切り者」「カッパーヘッド」と呼び、「泥棒、堕落、堕落、原罪」で非難していた。 1872年の選挙により、ベルモントは民主国家委員会の議長を辞任したが、それでもラザフォード・B・ヘイズに大統領の座を与えた過程を激しく批判したり、「ハードマネー」と呼ばれる金融政策を提唱するなど、政治活動を続けていた。
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