戦後の料亭小松
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1945年(昭和20年)8月15日の終戦後、小松はいったん店を休業した。同年8月30日には横須賀に連合軍が進駐し、横須賀鎮守府も接収された。その結果、鎮守府の残務整理を行なう部署も横須賀鎮守府庁舎を追われることになり、休業していた小松に移ってきた。やがて小松は外務省の職員も宿舎として利用するようになった。鎮守府の残務整理が行なわれ外務省の職員も利用する小松には、連合軍の関係者もやってくるようになった。大佛次郎の1945年8月30日の日記には「海軍とともに出来上った店主人が帝国海軍と運命を共にしたいと云う。代を変え他人が経営する」と述べられている。 小松に出入りする連合軍の関係者の中には米軍の憲兵もいた、山本直枝は憲兵の隊長に小松の営業再開について打診をしてみたところ、隊長から横須賀には連合軍兵士の健全な遊び場がないことが悩みの種であったので、小松の営業を歓迎する旨の意見が出されたことがきっかけとなり、熱湯タンクと流しの整備を行なうことを条件として小松の営業が認可され、1945年(昭和20年)10月、横須賀のGHQ指定料理店第一号として営業を再開することになった。また小松側としても、アメリカ軍人に「こんなところで遊んでいたから日本は負けたのだ」と言われないために、小松は敷地内にグリル、ソーシャルサロンを整備し、バンドを入れて連合軍兵士らに対応できる設備を整えるなど、戦争末期から終戦後の混乱で荒れていた小松を整備していった。 営業を再開した小松はアメリカ海軍士官らに受け入れられていった。従業員に対する英語教育が必要となり、終戦後横須賀市内の長井に隠棲していた井上成美に依頼することとなった。井上は海軍がひとかたならぬ世話になった料亭小松からの依頼を快諾し、小松の従業員に対して手作りの教材を用い、「すき焼きはいくらです」などというような、料亭で役立つ実用的な英会話を教えた。 1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効した、この年、講和条約の発効を記念して、小松は旧館の一階部分をキャバレーに改築し、アメリカ軍人やアメリカ軍人とともに来店する日本人相手のサービスを提供するようになった。この頃になると小松に旧海軍関係者がよく姿を見せるようになった。1955年(昭和30年)には小松は創業70周年を迎え、新館に瓦葺二棟五部屋を増築した。 横須賀は戦後、米海軍ばかりではなく海上自衛隊の重要な根拠地となっており、旧海軍の伝統を引き継いでいる。そのような横須賀の料亭として唯一残っていた小松は、米海軍や横須賀の海上自衛隊でも広く利用され続け、旧日本海軍の海軍料亭としての伝統を守り続けていた。2003年(平成15年)には旧館の約半分が解体されてマンションが建設されたため、戦後キャバレーとなった部分などが無くなったが、大正末に建設された玄関部分や、銘木をふんだんに用いた新館は21世紀に入っても健在であった。また、多くの日本海軍軍人に愛好されたため、小松には海軍軍人の書など、日本海軍の歴史を知るための貴重な資料が数多く残されていた。しかし、2016年(平成28年)5月16日、火災により全焼した。出火の原因は不明。跡地は、2021年5月中旬までの期間限定で「かき小屋横須賀中央店」となった。
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