戦後の日本での動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 16:00 UTC 版)
戦後の日本では、まず、事件当時奉天総領事代理であった元外交官の森島守人が、"新聞掲載が禁じられていたため(日本では)公けにならなかった日本軍の蛮行の一例"として、この事件を著書(1950年)で取り上げ、責任者を同地守備隊の一大尉とした。ただし、彼の著述では、大尉の部下である井上中尉の夫人が自決した事件を大尉の夫人が自決したものと取り違えている。毎日新聞の記者であった上妻齊がこの事件を題材に執筆した「撫順秘話」が『秘録 大東亜戦史 下巻』(1953年6月)に収録され、この本がかなりのヒット作品となったため、日本国内でもある程度知られるようになった。上妻の著作では、夫人が自決したとされている点で、井上中尉のことと思われるN中尉が、その独断専行で80名ほどの自身の部下を率いて起こした事件となっている。その後もマスコミ等で、日本軍が中国で行った虐殺行為の一つ、あるいは、虐殺に反対していたにもかかわらず民間人が処刑されてしまったBC級戦犯の悲劇として、取り上げられることはあったが、本多勝一が朝日新聞に連載した「中国の旅」(連載1971年、書籍刊行1972年)で、この平頂山事件がとりあげられたことで、広く知られるようになった 。
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