中国の旅とは? わかりやすく解説

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中国の旅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 23:37 UTC 版)

『中国の旅』(ちゅうごくのたび)は、朝日新聞記者(当時)本多勝一によるルポルタージュ作品である。 日中戦争中の日本の戦争犯罪を現地の視点から明らかにすることを目的として、1971年6月から7月にかけての約四十日間、国交正常化前の中国各地で取材を行い、朝日新聞夕刊に1971年8月末から12月まで連載、1972年に朝日新聞社から単行本『中国の旅』として刊行された[1]。また、姉妹編として写真を主とした『中国の日本軍』が創樹社より刊行された[2]

中国当局の協力により各地で案内人による説明と被害者への取材がセッティングされ被害者本人による生々しい証言が伝えられた[3]。当時、一般の日本人にはあまり知られていなかった南京事件三光作戦平頂山事件万人坑などをセンセーショナルに取り上げ、連載中から大きな反響を呼んだ。文化大革命中の中国国内の様子を伝えるルポタージュとしても重要である[注釈 1]
日本の戦争犯罪を中国側の視点で伝えたものとして評価される一方、中国共産党の用意した人物の発言や中国側の主張を一方的に掲載したものだとする批判も多く[注釈 2]南京大虐殺百人斬り競争などは事実関係を巡って戦争責任歴史認識についての論争を巻き起こした。

出版の経緯

取材目的

本多によれば「戦争中の中国での日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにすること」、特に日本軍の残虐行為に重点を置き、虐殺事件の現場を直接訪問し、被害者に取材をすることを目的としたという[7]

出版までの経緯

日中国交正常化前の中国では、1966年から文化大革命が起こり、日本の報道機関は次々と追放・撤退させられる事態が続いていた。1970年9月に共同通信記者が追放され、以降、中国に滞在していた報道関係者はわずかに朝日新聞特派員のみとなっていた。
朝日新聞の本多勝一記者と古川万太郎記者は、別々の取材目的により中国での取材を計画し、1970年から71年にかけて入国を申請、1971年5月15日入国許可が下り、6月14日に北京入りをした。北京の外交部新聞司中国語版の異例の取材協力により中国各地の事件の被害者本人と対面しての取材が実現した。事件の取材は、主に中国側の案内人(現地の革命委員会.中国語版など)が事件を解説し、前もって集められた被害者が証言をするという形で行われた[3]。 1971年6月から7月にかけての約四十日間、中国各地で取材を行い、朝日新聞夕刊において、1971年8月26日付から12月25日付けまでの40回、四部構成で連載した(第一部「平頂山事件」・第二部「万人坑」・第三部「南京事件」・第四部「三光政策」)[8]
1972年、朝日新聞に連載されたものと『朝日ジャーナル』『週刊朝日』の連載分をまとめ、朝日新聞社より単行本『中国の旅』、創樹社より『中国の日本軍』が刊行された[1]

出版後

連載中から大きな反響を呼び、南京事件論争のきっかけとなった。 1983年、本多は再度中国への長期取材を行い、1984年、朝日ジャーナル上で『南京への道』を連載、1987年に単行本『南京への道』が朝日新聞社より刊行された。

内容

『中国の旅』

『中国の旅』(朝日新聞社 1972年)

 目次
  本書に寄せて(森恭三)

  1. 中国人の「軍国日本」像
  2. 旧「住友」の工場にて
  3. 矯正院
  4. 人間の細菌実験と生体解剖
  5. 撫順――侵略された側の歴史
  6. 平頂山事件
  7. 防疫惨殺事件
  8. 鞍山と旧「久保田鋳造」
  9. 万人坑
  10. 盧溝橋の周辺
  11. 強制連行によるドレイ船の旅
  12. 上海の戦場
  13. 「討伐」と「爆撃」の実態
  14. 南京
  15. 三光政策

  跋

本多勝一著作集10『中国の旅』(すずさわ書店 1977年)

目次

  • 入境――北京へ[注釈 3]
  • 中国の教育[注釈 3]
  • 労働者と農民[注釈 3]
  • 東北地方へ[注釈 3]
  • 中国人の「軍国日本」像
  • 旧「住友」の工場にて
  • 矯正院
  • 人間の細菌実験と生体解剖
  • 撫順
  • 平頂山事件
  • 防疫惨殺事件
  • 鞍山と旧「久保田鋳造」
  • 万人坑
  • 盧溝橋の周辺
  • 強制連行による日本への旅
  • 郭沫若氏との会見[注釈 3]
  • 上海の戦場
  • 「討伐」と「爆撃」の実態
  • 南京事件
  • 三光政策
  • あとがき

※「郭沫若氏との会見」が追加された。

朝日文庫『中国の旅』(1981年)

目次

  • 中国人の「軍国日本」像
  • 旧「住友」の工場にて
  • 矯正院
  • 人間の細菌実験と生体解剖
  • 撫順
  • 平頂山
  • 防疫惨殺事件
  • 鞍山と旧「久保田鋳造」
  • 万人坑
  • 盧溝橋の周辺
  • 強制連行による日本への旅
  • 上海
  • 「討伐」と「爆撃」の実態
  • 南京
  • 三光政策の村
  • あとがき
  • 解説(高史明

本多勝一集14『中国の旅』(朝日新聞社 1995年)

目次
中国の旅

  • 入境――北京へ[注釈 3]
  • 文革の教育[注釈 4]
  • 労働者と農民[注釈 3]
  • 東北地方へ[注釈 3]
  • 中国人の「軍国日本」像
  • 旧「住友」の工場にて
  • 矯正院
  • 人間の細菌実験と生体解剖
  • 撫順
  • 平頂山
  • 防疫惨殺事件
  • 鞍山と旧「久保田鋳造」
  • 万人坑
  • 盧溝橋の周辺
  • 強制連行による日本への旅
  • 郭沫若氏との会見[注釈 3]
  • 上海
  • 「討伐」と「爆撃」の実態
  • 南京
  • 三光政策の村

アルバニア瞥見

  • アルバニア瞥見

再訪・中国の旅

  • 北京・盧溝橋
  • 瀋陽・平頂山
  • 撫順
  • 大石橋(営口)

解題

※「アルバニア瞥見」「再訪・中国の旅」が追加された。


『中国の日本軍』

  • 自序 教育される側の論理
  • 第一部 平頂山の虐殺
  • 第二部 日常生活のタコ部屋化
  • 第三部 ヒト捨て場「万人坑」
  • 第四部 南京大虐殺
  • 第五部 人体実験と生体解剖の「満州医大」
  • 第六部 三光政策の村
  • 第七部 日本軍去って二十余年
  • 中国に日本の犯罪を「謝罪」してはならない
  • 原爆で虐殺された日本人と日本軍に虐殺された中国人
  • 解説 侵略軍の弱さ・残虐さと 人民軍の強さ・正しさ (藤田茂[注釈 5]

評価・批判

肯定的な評価

批判

山本七平イザヤ・ベンダサン名義)

鈴木明

  • 文藝春秋社『諸君!』誌上で『中国の旅』を批判した。1973年『「南京事件」のまぼろし』を文藝春秋社から刊行し、南京事件論争へ発展した[11]

満鉄関係者からの抗議

  • 1971年、南満鉱業社友会代表が朝日新聞社へ「万人坑」の記述が事実と異なるとして抗議した[注釈 6]
  • 1986年、久野健太郎(撫順炭鉱技師)は本多に自著を送り「万人坑」について事実と異なる旨を抗議した[注釈 7]
  • 1990年、『正論』誌上で炭鉱関係者と田辺敏雄による『中国の旅』批判、本多勝一との論争が起きた[13][14][15]撫順会では約千人の「全員調査」により「撫順炭鉱では残虐行為による万人坑は存在しなかった」と結論、1990年12月要旨が産経新聞で報じられた[16]
  • 1991年4月に撫順会、5月に南満鉱業社友会は、朝日新聞社へ『中国の旅』の廃刊を求める申入書を送付した

[注釈 8] [注釈 9]

田辺敏雄[注釈 10]
産経新聞社正論』誌上などで本多を批判した。元兵士や炭鉱関係者への調査を行い、「万人坑」などについて記述の多くが誤りであると主張している[21][22]

百人斬り競争名誉棄損裁判

「南京」の章で取り上げられた「百人斬り競争」を行ったとされる二少尉、野田毅向井敏明の遺族が、2003年4月28日、本多勝一、朝日新聞、毎日新聞柏書房らを、遺族及び故人に対する名誉毀損で提訴したが、2006年12月22日、最高裁において原告側の敗訴が確定した。

写真誤用問題

『中国の日本軍』で掲載された写真のうち「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ。(南京市提供)」と説明される写真が、実際には1937年11月『アサヒグラフ』掲載の戦争犯罪と無関係な写真をキャプション改竄したものと判明した[注釈 11]。本多は2014年のインタビューで写真誤用を認めたが、書籍の回収や訂正は行っていない[24][注釈 12]。 また『中国の旅』『中国の日本軍』に掲載された南京市提供の他の写真についても、日本の画報からキャプションを改竄した写真や、撮影者や撮影場所など基本的な情報を欠いた写真であることが指摘されている[25][注釈 13]

脚注

注釈

  1. ^ 同取材による文革中の中国のより詳しい報告として『戦争を起こされる側の論理』(現代史資料センター出版 1972年)掲載「中国の旅から」、古川万太郎『「ニイハオ」の国 : ルポ 中国の民衆の中に入って』(現代史資料センター出版 1972年)がある。ただし文化大革命や紅衛兵を好意的に取り上げている[4][5]
  2. ^ 藤岡信勝「日本虚人列伝 本多勝一」「中国各地を引き回し、共産党がお膳立てした『語り部』に日本軍によって受けた『被害』を本多に語らせた」[6]
  3. ^ a b c d e f g h i すずさわ書店版での加筆・追加分
  4. ^ すずさわ書店版からの改題・改筆
  5. ^ 藤田茂は中国帰還者連絡会会長
  6. ^ 朝日新聞での「万人坑」の連載直後、朝日新聞社に直接出向いて抗議したが「門前払いも同様」だったという[12]
  7. ^ 久野氏による抗議に対し、本多からは「私は中国側のいうのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やって頂けないでしょうか」との回答が返信されて来たという『追跡平頂山事件』田辺敏雄 1988年 p.236
  8. ^ 撫順会は1991年4月25日、朝日新聞を訪れ、「作り話等が歴史的事実として確定してしまうおそれがある」として、『中国の旅』の廃刊を求める申入書を手渡し、文書による回答を求めた[17]
    撫順炭鉱申入書
    ①『中国の旅』所載の「撫順炭鉱」「防疫惨殺事件」「万人坑」は作り話、あるいは著しく事実と相違したものを、あたかも事実であるかのように記述したのは誤りであったこと、したがってその記述を全部を取り消す旨、朝日新聞に公告すること。
    ②現在販売中の単行本、文庫本を回収すること。刊行を続ける場合は、「撫順炭鉱」「防疫惨殺事件」ならびに「万人坑」に関する記述を削除したものにすること。
    ③『中国の旅』以外の刊行物中、撫順炭鉱ならびに右記両事件に関する記述のあるものは、前項と同様の措置をすること。
    ④『中国の日本軍』について、②項と同じ措置をすること。[18]
  9. ^ 南満鉱業社友会は1991年5月、朝日新聞編集局長宛に申入書を送付した。社員は高齢に達し「事実であるかのごとき報道をされたままでは、同僚に対して、また国民に対し申し訳がたちません」として、『中国の旅』の廃刊を求めた[19]
    南満鉱業社友会申入書
    ①「中国の旅」の連載のうち、「万人坑」として報道された部分を、一般読者が明白に分かるよう相当なスペースをもって、全文削除すること、ならびに謝罪を含む訂正文を朝日新聞紙上に掲載すること。
    ②単行本、文庫本は直ちに廃刊とし、速やかに流通在庫の回収をはかること。
    ③もし、要求が受け入れらないとするならば、「万人坑」報道に誤りがなかったという見解になる。この場合、その根拠を示して欲しいこと。また、日本側のどこを調査し、そのような結論に達したかも合わせて回答して欲しい[20]
  10. ^ 田辺敏雄は「平頂山事件」で責任者とされる撫順守備隊隊長「K陸軍大尉(川上精一大尉)」の娘婿にあたる。「平頂山事件」「万人坑」などについて、元兵士や炭鉱関係者など日本側の関係者への調査を行った。
  11. ^ 『アサヒグラフ』1937年11月10日号「我が兵に護られて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供たち(江蘇省宝山県盛家橋部落の中国人農民)1937年10月14日熊崎玉樹特派員撮影」。1938年刊行の国民党軍事委員会政治部による抗日プロパガンダ冊子『日寇暴行実録』でキャプションを改竄して転載されている。[23]
  12. ^ この写真は笠原十九司 岩波新書『南京事件』(1997年)Ⅲ章の扉にも使用されていた。1998年に誤用が発覚し、岩波書店は販売を差し止め・初版の交換・写真の差し替えを行った。笠原十九司#写真の誤用問題
  13. ^ 1995年の本多勝一集14『中国の旅』「南京」P.266では、新たに日本兵の写真が2枚追加され「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された(南京市提供)」と説明されるが、これらの写真は朝日版支那事変画報(第9輯)昭和12年5月号裏表紙「支那民家で買ひ込んだ鶏を首にぶら下げて前進する兵士」(10月29日京漢線豊楽鎮にて小林特派員撮影)・毎日版支那事変画報(第12輯)昭和12年12月11日刊に掲載の「飼い主に捨てられた山羊二頭(外崗鎮附近村落にて)」であると判明している。1938年刊行の国民党軍事委員会政治部による抗日プロパガンダ冊子『日寇暴行実録』にキャプションを改竄して転載され、日本兵による家畜の強奪として宣伝された写真だった[23]。この2枚の写真は『中国の日本軍』にも掲載されている[26]

出典

  1. ^ a b 『中国の旅』(朝日文庫)1981, p. 298.
  2. ^ 『中国の日本軍』1972, p. 12.
  3. ^ a b 『中国の旅』(朝日文庫)1981, p. 119.
  4. ^ 『戦争を起こされる側の論理』1972, p. 103-163.
  5. ^ 古川万太郎『「ニイハオ」の国 : ルポ 中国の民衆の中に入って』1972.
  6. ^ 藤岡信勝「日本虚人列伝『本多勝一』」(『正論』平成30年2月号).
  7. ^ 『中国の旅』(朝日文庫)1981, p. 10.
  8. ^ 『朝日新聞の「戦後」責任』片岡正巳 1998年, p. 175.
  9. ^ 『殺す側の論理』朝日文庫1984, p. 116-282.
  10. ^ 山本七平『日本教について』1972年.
  11. ^ 『「南京事件」のまぼろし』1973.
  12. ^ 『「朝日」に貶められた現代史』田辺敏雄 1994年, p. 31.
  13. ^ 「朝日・本多勝一記者の誤報」田辺敏雄(『正論』1990年8月号)
  14. ^ 「『朝日・本多勝一記者の誤報』という”誤報”」本多勝一(『正論』1990年9月号)
  15. ^ 南満鉱業元社員5名による座談会「私たちは万人坑なんて知らない」田辺敏雄「重ねて言う、万人坑はなかった」『正論』1990年10月号
  16. ^ 産経新聞 1990年12月4日付
  17. ^ 『「朝日」に貶められた現代史』田辺敏雄 1994年, p. 142.
  18. ^ 『間違いだらけの新聞報道』片岡、板倉、田辺 1992年, p. 228-229.
  19. ^ 『「朝日」に貶められた現代史』田辺敏雄 1994年, p. 147.
  20. ^ 『間違いだらけの新聞報道』片岡、板倉、田辺 1992年, p. 229-230.
  21. ^ 『「朝日」に貶められた現代史』田辺敏雄 1994年.
  22. ^ 『追跡平頂山事件』田辺敏雄 1988年.
  23. ^ a b 『南京事件「証拠写真」を検証する』2005年, p. 115-116.
  24. ^ 「週刊新潮」2014年9/25号。.
  25. ^ 『南京事件「証拠写真」を検証する』2005年, p. 111-118.
  26. ^ 『中国の日本軍』1972, p. 130-131.

関連文献

『中国の旅』朝日新聞社、1972年。ISBN 978-4022539847 

『中国の日本軍』創樹社、1972年。 

参考文献

関連項目




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