南中国の旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/30 18:01 UTC 版)
3月8日、崔溥一行と護衛は健跳鎮衛所に移動し、翌日、三門湾を舟で渡って紹興越西巡検司に向けて出発した。 3月10日、寧波と台州の境界にある次の衛所に到着したが、ここは43にも及ぶ人員に食料を提供するにはいささか小規模だったので、早く見送りたがった。 丸一日かけて移動し、深夜になる前に35km北に位置する次の衛所にたどり着いた。 激しい雨と風によりこれ以上進むのは無理だったが、明くる日に宿衛人は、明朝の駅逓制度は時間厳守のため非常に厳格なのだと言って、雨にもかかわらず崔溥一行を急かした。 3月11日にはまた35km進み、次の衛所に着いたときにはすっかりずぶぬれになっていた。 そこの衛所の長は暖を採るための火をおこしてくれたが、この一行を捕まえられた海賊だと勘違いした男が怒って火を足で踏み消してしまった。 義務に忠実な宿衛人はこの男の蛮行を郡の行政官庁に伝えるための説明を書面にし、翌3月12日、次の目的地へと出立する一行に持たせた。 一行はその日の内に大運河に通じる川の船着き場に着いた。物流の大動脈である大運河に沿って北上すれば北京にまで行ける。 ここからは水運の方が陸運よりもいい移動手段である。崔溥は「全ての伝令、貢物、商取引は、行き交う舟で行われる。もしも干魃で舟が通れないほど運河や川が干上がってしまったら緊急事態である、陸を超えて行く道を使うしかない。」と書いている。 寧波の町に着いたときには、崔溥は町並みの美しさに目を奪われ、そのことを特筆する。慈渓には多くの市場があり軍船で混雑していると書いたが、寧波の高等海防署へ至ったときには門の立派さと群衆の多さは慈渓の三倍であると書いた。 崔溥と、台州から崔溥一行を護衛した人物の調査の後、彼は先の消し火事件のことで管理責任を問われ、懲罰を受けた。 それだけではなく、杭州に到着したときには期限までに朝鮮人達を送り届けなければいけないところ遅延したためさらに罰を受けることになった。 標準的な刑は、一日につき20回、杖で打ち据えられるものであったが、連続して三日の遅延であったので最大60回ということになった。 このことは旅の興をそぐものとなったが、それでも崔溥は、風光明媚な杭州に感銘を受け次のように書いている。 世の人が言うようにまるで別世界のようだ。家々は丈夫な柱で支えられ、人々の優雅な服の袖が垂れ下がっている。市では金銀を積み上げ、美しい着物や装飾品で着飾った者たちが集まる。異国から来た船が櫛の歯のように何艘も並び、酒を売る店と音楽を楽しむ店が直接向かい合わせになって軒を連ねている。 — Brook (1998, p. 43) Brook (1998)によれば、崔溥は、杭州が中国の南東部全域から来た船が江南地方へと物資を運び交易を行い、大明帝国の商業活動を支える中心都市であった様子を非常によく観察している。 海禁政策により、公式には明朝のみが外国と取引を行うことのできる主体であったが、崔溥の残した記録により、このような禁令にもかかわらず密輸が横行し、遙か東南アジアやインド洋から杭州に白檀、胡椒、竜涎香などが持ち込まれていたことがわかる。 しかし密輸はかなり危険を伴うものであったようである。崔溥はこの種の商売に携わる船の半分が戻ってこないということに気付いた。 3月23日、杭州の役所は崔溥一行に新しい護衛を付け、彼らの身分証明書を発行し、広い国内を横断するのに必要なだけの食料と物資をどっさりくれた。 一行は、3月25日の出発の日まで、さらに二日間を杭州で過ごした。 その理由は、風水に従ってどの日が吉日であり、どの日が凶日であるかが全て載っている大明帝国官僚組織のハンドブックの記載通りに、官吏が出発の日取りを決めたからである。 一日あたり50km進んで、杭州から北京まで3月25日から5月9日までかかったが、蘇州で一日過ごしているので、一行は旅程の期日を二日間短縮したことになる。明朝の逓信制度においては1日で45km進む定めになっていた。 蘇州旧市街 蘇州旧市街 街中を通る運河 中華帝国南東部の経済の結節点となっていた都市、蘇州を訪れた3月28日には、次のように記している。 大店小店が川の土手の両側に列をなし、雑多な商売人で混み合っている。江南都市の中心とはよく言ったものである。...ここには、薄絹、紗、金、銀、宝石、工芸品、芸術品といた山海の財宝があり、富裕な大商人がいる。...このような大商人や小さな商いの商売人が雲のように群がっており、彼らの出身地は河南、河北や福建など多様である。 — Atwell (2002, p. 100), Brook (1998, p. 45), Ge (2001, p. 150), Xu (2000, pp. 25-26) 蘇州は、他に並ぶものがないほど壮麗であった。崔溥によると杭州も確かに壮麗ではあったが、杭州は単に江南に富をもたらし需要を満たす商業的な役割を担うに過ぎなかった。また、蘇州をはじめとした各都市の周りにまで住居が広がっている揚子江デルタの様子については、「しばしば街の20里(1里は約1.7km)四方に郷鎮の門がひしめき、市は道に列をなし、楼の向こうに楼が見え、行き交う舟で水路が埋め尽くされている」と観察している。
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