北中国の旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/30 18:01 UTC 版)
蘇州を出発し大運河の旅を続けていくうちに、4月13日、呂梁という流れの速い場所に着いた。ここは南直隷にあり、運河の流れがいったん途切れる場所である。 10頭の牛に舟を引かせ、この早瀬を通った。そして次なる難所の徐州では船曳100人が舟を引いた。 運河を何カ所かで区切って水面の高さの異なるいくつかの節に分け、舟を安全に通すための仕組みを「閘」というと崔溥は書き、閘門の他にも塘・堤・堰といった堤防の仕組み、水車の構造、虹橋・石橋・木橋・屋根付きの橋といった橋の構造についても詳細に報告している。 臨清と徳州という現在の山東省にある騒がしい町は、商業活動が盛んではあるけれども、杭州と蘇州の壮麗さにはとうていかなわないと記している。 華北においては、この二都市と一握りの街ぐらいしか江南の繁栄に匹敵するところはなく、華南に比べて華北は貧しくあまり発展していないと書いた。 また、華南は文明、社会秩序、文芸、工芸技術において華北よりも優れているように思われた。 南人は身なりもよく北人は全ての物資において事欠き、野盗追い剥ぎを恐れていると書いた。Brook (1998)は次のように書いている。 旅行記も終わりに近づくと、南と北を比べて落ち込むことの繰り返しが目立つ。住居が「江南では広壮な瓦屋根の邸宅だったのに北では藁葺き屋根の掘っ立て小屋だ」とか、交通手段が「南では輿だったのに北では馬や驢馬だ」とか、流通貨幣について「南の市場では金銀なのに北では銅銭だ」とか、「南では農業、手工業、商業それぞれに人々が精を出しているのに対し、北では怠けている」とか、「南の人は愛想がよくて快活なのに、北の人はいつも喧嘩ばかりしている」とかいった具合である。他に、南の行き届いた教育に対し、北の文盲の多さについても書いている。 — Brook (1998, pp. 49-50) 中国では、行き交う人々がすべて、どの社会階層の人であっても、何らかの商売・取引を仕事としていることに崔溥は気付いた。 伝統的には商業に手を出すと蔑まれるはずの科挙官僚でさえも、「借財してでも僅かな儲けのために精を出している」と旅行記に記している。 湖北省から山東省への旅の途中、三省六部の役人を乗せた舟の群れが通り過ぎることに気付いた。 あれは何かと尋ねたら、新しく即位された天子さま(弘治帝(在位1488-1505))が、地位に見合わないろくでなしだとお考えになった官僚を、たくさん処罰されたのですよと教えられた。 不名誉により職を解かれた官僚達には、こうやって駅逓制度に則って護送されていくことが、たとえ宮廷から追放されることを実感してしまうようなものであっても、居心地のいいものであった。 大運河を使って華北平原を旅し、北京に隣接する城市に到着するまでの行程は、11日であった。 そこで舟を下りて、驢馬の背に揺られるか自分の足で歩くかして首都の北京を目指した。首都では駅逓制度における急使が使える宿泊所があって、そこに泊まった。 大明帝国の宮廷は崔溥の滞在中に上質な衣服を下賜した。 6月3日、護衛の担当官が崔溥一行を朝鮮国まで送り届けるのに3台の馬車と驢馬が必要だと当局に願い出た。午前中にもその願いは聞き入れられすんなりと北京を発つことができた。 崔溥は北京の光景を後にすることにまったく未練がなかった。なぜなら、北京の人々は商売に精を出すことに一生懸命で、農業に関心を持っていないことに蔑みを覚えたからだ。 農本主義の儒教イデオロギーにとらわれた崔溥の目には、北京の光景はそのように映った。
※この「北中国の旅」の解説は、「崔溥」の解説の一部です。
「北中国の旅」を含む「崔溥」の記事については、「崔溥」の概要を参照ください。
- 北中国の旅のページへのリンク