戦後の日本思想史研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:28 UTC 版)
戦前には西洋哲学者や東洋史学者などが副次的に研究していた日本思想史だが、戦後には日本思想史専門の研究者が登場するようになった。また、研究分野が細分化し、政治思想史や仏教史などのほかに、研究者は古代・中世・近世・近代の時代区分ごとの専門を持つようになっていった。 丸山政治思想史学の登場 政治哲学者の南原繁の勧めで日本政治思想史を始めた丸山眞男の『日本政治思想史研究』は、敗戦後の日本で学生たちを中心に広く読まれ、『現代政治の思想と行動』と共に戦後民主主義の普及に一役買っていた。丸山は朱子学に代表される政治秩序を「自然」と見なす前近代的思惟様式に対して、荻生徂徠が政治秩序は「作為」的であると考えたとし、近代的思惟様式の幕開けと論じ、日本人の思想の中に近代西洋思想を受け入れる素地があったと主張した。しかし、安保闘争を機に丸山の依っていた講座派理論のいう半封建的な社会が一向に民主化へ向かわない政治情勢に絶望して、「歴史意識の『古層』」が収められた『忠誠と反逆』以降は、古代から流れる「つぎつぎとなりゆくいきおひ」という日本人の思考方法がある限り近代化は不可能であるという結論に至った。丸山は藤田省三、植手通有、松本三之介、渡辺浩など多くの後進を育てた。狩野亨吉の発掘した安藤昌益は、エドガートン・ハーバート・ノーマンの『忘れられた思想家』で再度取り上げられ、封建制批判の先駆者として称賛された。 丸山思想史学への批判 尾藤正英は『日本封建思想史研究』で朱子学と封建制を直接結びつける丸山を批判し、日本朱子学の中にも幕府の支配体制を擁護する山崎闇斎と批判する中江藤樹・熊沢蕃山という二つの流派が存在することを主張した。吉川幸次郎や加地伸行らの中国文学者や中国哲学者は、丸山の漢文読解に誤りが多いことを指摘している。安丸良夫は『日本の近代化と民衆思想』を著し、大思想家ばかりを取り上げるのでなく、民衆史の視点から幕末から近代にかけての民衆思想を研究した。子安宣邦は『「事件」としての徂徠学』で丸山の「自然と作為」という見方を批判し、丸山は自身の近代主義的な歴史哲学に合わせて荻生徂徠をはじめとする思想家たちを実際のあり方から変形させてしまったとする。渡辺浩は『近世日本社会と宋学』で、中国近世と日本近世で同じ儒学用語でも意味が異なることを指摘した。 新しい日本思想史研究 若尾政希は『太平記読みの時代』で安藤昌益を始めとする思想家や藩主たちが朱子学よりも『太平記理尽抄』から学んで政治思想を形成したことを論じている。 国際的な日本思想史研究 日本学の研究は欧米やアジアの大学で行われており、アメリカのシカゴ大学ではテツオ・ナジタ、ハリー・ハルトゥーニアン、ヴィクター・コシュマンが日本思想史の「シカゴ学派」を作り出した。
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