エドガートン・ハーバート・ノーマンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 学者・研究者 > 歴史学者 > カナダの歴史学者 > エドガートン・ハーバート・ノーマンの意味・解説 

ノーマン【Edgerton Herbert Norman】


エドガートン・ハーバート・ノーマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/15 02:25 UTC 版)

エドガートン・ハーバート・ノーマン
Edgerton Herbert Norman
10代のころのノーマン
人物情報
生誕 1909年9月1日[1]
日本 長野県北佐久郡東長倉村(現在の軽井沢町[1]
死没 (1957-04-04) 1957年4月4日(47歳没)[1]
エジプト カイロ[2]
国籍 カナダ[1]
出身校 トロント大学ビクトリア・カレッジ[1]
トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)[1]
ハーバード燕京研究所[1]
学問
研究分野 日本史中国史[2]
学位 Ph.D.[1]
テンプレートを表示

エドガートン・ハーバート・ノーマンEdgerton Herbert Norman [2]1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダ外交官日本史歴史学者日本生まれ。ソ連スパイの疑いをかけられ自殺した。

略歴

生い立ち

在日カナダ人宣教師ダニエル・ノーマンの子として現在の長野県軽井沢町で生まれる。父ダニエル(1864年 - 1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嗜みながら雑誌を読むタイプだった[3]。その後カナダのトロントに移り、父と同じトロント大学ビクトリア・カレッジ英語版に入学、この頃より社会主義への傾倒を始める。

1933年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。このころは左翼系の学生活動にのめりこみ、共産主義系の数々の学生組織で活動する。その後ハーバード大学に入学し、軽井沢教会を通じて両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワーのもとで日本史を研究しつつ、学友で「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶ他、学友を社会主義活動へ勧誘し続けた。英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者と断定[4]

外交官

1939年に同大学を卒業し、カナダ外務省に入省、1940年には東京公使館へ語学官として赴任。公務の傍ら、東京帝国大学明治新聞雑誌文庫(宮武外骨が創設)を頻繁に訪ね、近代日本史の研究を深めるとともに、羽仁五郎に師事して明治維新史を学ぶ。また、丸山真男らとも親交を深めるなど、充実した日々を送っていた。しかし1941年12月に日本とカナダ間で開戦したために、日本政府によって軟禁状態に置かれ、翌年日米間で運航された交換船で帰国。太平洋問題調査会などで活動した[1]

GHQ

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)9月、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに対敵諜報部調査分析課長として出向し、同年9月27日からの昭和天皇マッカーサーのGHQ側通訳を担当した。マルクス主義の憲法学者鈴木安蔵らに助言して憲法草案要綱作成を促すほか、GHQ指令で釈放された共産党政治犯の志賀義雄徳田球一らから反占領軍情報を聞き出すなどした。また、政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民政局次長のチャールズ・L・ケーディスの右腕として協力したほか、戦犯容疑者調査を担当し、近衛文麿木戸幸一A級戦犯に指名し、起訴するための「戦争責任に関する覚書」を提出した。連合国軍占領下の日本の「民主化計画」に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫中野好夫桑原武夫加藤周一らと親密に交流した。特に重要なのは1946年にGHQが戦前の日本の政党の活動を禁止した中で日本共産党だけはノーマンの助言でこの禁止を受けなかった。これが学生時代の左翼活動と相まってその後のソビエトスパイの容疑に大きく影響する。

1946年8月には駐日カナダ代表部主席に就任する。1947年には東大の研究生であった三笠宮の英語の家庭教師となり、常磐松町宮内庁分室で講義を行った[5]

その後1951年9月にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。

スパイ

その後、第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。

そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使レバノン公使に栄転する。同年に起きたスエズ動乱勃発では、盟友のレスター・B・ピアソンを通して現地の平和維持と監視のための国際連合緊急軍導入に功績を残し高い評価を得た。しかし、都留重人を取り調べたFBI捜査官によるアメリカ合衆国上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた[6]。ただし、公聴会での証言記録を検討した鶴見俊輔によると、都留はノーマンが共産主義者であるかどうかについて言明や評価を避けており、都留の発言は、彼を知っている、彼と何年に会った、彼の職位は云々だったなどの「単純事実命題」に留まっており、日本のメディアでバッシングされているような裏切りや陥れの事実はない[7]

実際に学生時代に共産主義者であった事実は確定しており、学者としてもかなり左寄りの論調を主張した事実はあった。しかし、ベノナも含めてノーマンがスパイであったとの証拠は見つかっていない。

なお、カナダ政府は生前からノーマンのスパイ説を否定し続けており、カナダ外務省はノーマンの「功績」を称えて2001年5月29日東京都港区赤坂にある在日カナダ大使館の図書館を、「E・H・ノーマン図書館」と命名した。

ノーマン・ファイル

2014年7月、イギリス国立公文書館が所蔵する英国内のスパイ摘発や国家機密漏洩阻止などの防諜を担うMI5などの秘密文書のうち、「共産主義者とその共感者」と名付けられたカテゴリーに「ノーマン・ファイル」(分類番号KV2/3261)があることが公表され、ガイ・リッデルMI5副長官からカナダ連邦騎馬警察(RCMP)ニコルソン長官に宛てた1951年10月9日付の書簡内で「インド学生秘密共産主義グループを代表してインド人学生の共産主義への勧誘の責任者を務めていたノーマンが1935年にグレートブリテン共産党に深く関係していたことは疑いようがない」と記されていたことが明らかになった[4]

また、同ファイルには、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だったアメリカの外交官、ジョン・エマーソン英語版がノーマンの共産主義者疑惑に関連して米上院国内治安小委員会で証言した記録が含まれており、その中で、GHQの対日工作として行なった「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」(軍国主義者と国民を二分化することで日本国民に戦争に対する贖罪意識を植え付け、アメリカへの戦争責任批判を回避するための戦略)は、中華民国延安中国共産党野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行なった思想改造のための心理戦洗脳)の手法を取り入れたと証言したことが明らかになった[8]

著書

  • 大窪愿二訳『日本における近代国家の成立』時事通信社、1947年。原著1940年[1]岩波文庫で再刊、1993年
  • 陸井三郎訳『日本における兵士と農民』白日書院、1947年。原著1943年[1]
  • E.H.ノーマン述『封建制下の日本人民』大窪愿二編、信濃毎日新聞社、1948年
  • 大窪愿二訳『クリオの顔 歴史随想集』岩波新書、1956年。岩波文庫で再刊、1986年
  • 大窪愿二訳『忘れられた思想家 安藤昌益のこと』岩波新書 全2巻、1950年、ISBN 978-4-00-413141-0ISBN 978-4-00-413142-7。原著1949年[1]
  • 『ハーバート・ノーマン全集』全4巻、岩波書店(大窪愿二編訳)、1977年-1978年
増補版(磯野富士子・河合伸訳)、1989年、再版2001年。以上の著作等をまとめた選集

家族

  • ダニエル・ノーマン(1864-1941) - トロント市近郊オーロラ出身[3]メソジスト派宣教師として1897年に来日し、東京金沢長野で伝道[9]1902年から1940年まで長野市に定住。軽井沢に別荘を持ち、他の外国人避暑客らとともに軽井沢夏季滞在者協会を組織し別荘地開発に協力した[3]。来日した1897年に軽井沢合同教会(ユニオンチャーチ)を創立し、1906年には官営鉄道碓氷線の上級技術者用クラブハウスを買い取って改装し教会として使用、1918年にはヴォーリズ設計で改築し別荘地の外国人専用教会として多くの信徒を集めた[10]。日本人向けには1905年に軽井沢合同基督教会(現・軽井沢教会)を創設[11]。1929年に長野福音学校開設、賀川豊彦を招く[9]農家出身であったことから農業にも詳しく、稲作以外の換金作物を求めていた地元農家にトマト栽培を紹介した[3]。一家が暮らした長野市の家は北野建設の所有となって飯綱高原に移築され、「旧ダニエル・ノルマン邸」として長野市の指定文化財となっている[12][13]
  • 母 キャサリン・ノーマン
  • 姉 グレース・ノーマン(1903-?)
  • 兄 ハワード・ノーマン(1905-1987) - 軽井沢生まれ。トロント大学、アメリカ・ユニオン神学校神学を修め、1932年に父の跡を継ぐため合同教会宣教師として来日し、富山、東京、金沢で布教活動[14]。1939年にカナダ人生徒などの通う神戸市のカナディアン・アカデミーの舎監となったが、戦争でカナダへ帰国、戦後の1947年に再来日して関西学院大学文学部英文学科教授になり、1952年に神学部教授就任[14]。1959年よりカナダ合同教会宣教部勤務、1961年再来日し、長野県塩尻市に塩尻アイオナ教会を設立[14]。妻グエンとともに、日本におけるカナダ・メソジストの宣教の歴史をまとめた著作のほか、芥川龍之介の小品の英訳もある[14]

参考文献

  • 加藤周一編『ハーバート・ノーマン 人と業績』 岩波書店 2002年
  • 工藤美代子『スパイと言われた外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』 ちくま文庫 2007年
    • 旧版 『悲劇の外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』 岩波書店 1991年
  • 中野利子『外交官E・H・ノーマン その栄光と屈辱の日々1909-1957』 新潮文庫 2001年
  • 中薗英助『オリンポスの柱の蔭に 外交官ハーバート・ノーマンのたたかい』 社会思想社現代教養文庫、1993年
    • 旧版 『オリンポスの柱の蔭に ある外交官の戦い』 毎日新聞社(上下)、1985年
  • 鳥居民 『近衛文麿「黙」して死す ― すりかえられた戦争責任草思社、2007年/草思社文庫 2014年
    • 前著『日米開戦の謎』 草思社 1991年/草思社文庫 2015年

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l ノーマン ハーバート Norman Herbert”. 20世紀日本人名事典. 日外アソシエーツ. 2018年1月13日閲覧。
  2. ^ a b c 岡利郎. “ノーマン(Edgerton Herbert Norman)のーまん Edgerton Herbert Norman(1909―1957)”. 日本大百科全書. 小学館. 2018年1月13日閲覧。
  3. ^ a b c d カナダと長野県の歴史的結びつき:ノーマン一家の活動カナダ通信、2015年08月31日
  4. ^ a b 「ノーマンは共産主義者」英断定 GHQ幹部 MI5、35年の留学時産経新聞、2014.7.27
  5. ^ 小田部雄次「皇室と学問」p.129 星海社新書 2022年
  6. ^ John Howes (December 12, 1994). Japan in Canadian Culture. Canadian Embassy, Tokyo, Japan: The Asiatic Society of Japan. オリジナルのApril 30, 2003時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20030430140855/http://www.asjapan.org/Lectures/1994/Lecture/lecture-1994-12.htm. 
  7. ^ 鶴見俊輔 (1958). 「自由主義者の試金石」『アメリカ思想から何を学ぶか』. Tokyo, Japan: 中央公論社. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001314420-00 
  8. ^ GHQ工作 贖罪意識植え付け 中共の日本捕虜「洗脳」が原点 英公文書館所蔵の秘密文書で判明産経新聞、2015.6.8
  9. ^ a b ダニエル ノーマン Daniel Norman20世紀西洋人名事典
  10. ^ History軽井沢ユニオンチャーチ
  11. ^ 避暑地「軽井沢」の歴史的教会をめぐる軽井沢ネット、2011年8月11日
  12. ^ 旧ダニエル・ノルマン邸長野市文化財データベース
  13. ^ 旧ダニエル・ノルマン邸飯綱高原観光協会
  14. ^ a b c d ノルマン,W.H.H.(関西学院事典)関西学院大学、2014年9月28日

関連人物

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エドガートン・ハーバート・ノーマン」の関連用語

エドガートン・ハーバート・ノーマンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エドガートン・ハーバート・ノーマンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエドガートン・ハーバート・ノーマン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS