交換船
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交換船(こうかんせん、英語: Exchange and repatriation ship)とは、第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航された船のことである。
- ^ 『日米交換船』鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創(新潮社、2006年3月)pp253-261
- ^ 『ベルリン特電』江尻進(共同通信社、1995年)
- ^ 『伊号潜水艦訪欧記ヨーロッパへの苦難の航海』伊呂波会(光人社NF文庫、2006年)
- ^ 『外交官の一生』石射猪太郎、読売新聞社
- ^ 『日米交換船』新潮社,pp124-125
- ^ 『石射猪太郎日記』中央公論社,1993年,p.505, ISBN 9784120022302.
- ^ 海老名熱実「1942日米交換船とその時代」展パンフレット。日本郵船歴史博物館,2012年
- ^ 『日米交換船』新潮社, pp171-182, pp343-351
- ^ 『米国人記者が見た戦前のシナと日本』ジョン・B・パウエル著(中山理訳 渡部昇一監修、祥伝社 2008年)
- ^ 『横浜製フォード、大阪製アメリカ車』サトウマコト著 230クラブ刊, 2000
- ^ 『長崎の原爆で終わった抑留』, pp100-101、訳者大橋尚泰による解説箇所。マリー゠エマニュエル・グレゴリー(えにし書房, 2022)
交換船
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占領地の拡大に伴い、1942年5月、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や民間人(企業の駐在員や留学生、研究者、それらに帯同した家族など)を帰国させるための交換船に関する協定が結ばれ、日本とその同盟国、およびアメリカとその同盟国の間で1942年6月と1943年9月の2回、日本とイギリスおよびイギリス連邦諸国との間では1942年8月の1回、交換地となる中立国へ向けた交換船が運航されることになり、第一次日米交換船として浅間丸が使用されることになった。なおこの際に、軍役に就いている船舶による中立国への入港は国際法上禁止されていたため、一時的に軍役を外れて日本郵船へと戻ることになった。 1942年6月17日に、同じく交換船として運航されたコンテ・ヴェルデとともに横浜を出航し、上海や香港、サイゴンで、同地を含む日本の勢力圏内に住み抑留されたイギリス人やアメリカ人などを乗せて、交換地のポルトガル領東アフリカ(現:モザンビーク)のロウレンソ・マルケスへ向かい、7月22日にロウレンソ・マルケスに入港した。7月26日に、アメリカ側から来たグリップスホルム(スウェーデン船籍)によって運ばれて来た、アメリカやブラジル、メキシコやパナマなどの中南米の連合国(その多くは開戦後日本との国交を断絶した)に住み拘留された日本人と、日本の同盟国のタイ人を乗せてシンガポール(昭南)に向け出航し、8月20日に横浜に帰港した。
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