戦時中の行動
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本船が神戸に帰着した1941年(昭和16年)8月17日、同日付で「鎌倉丸」は日本海軍に徴用された。前述のように航空母艦への改装候補でもあったが、船齢がやや古いことやディーゼル主機で速力に余裕が無いことを考慮して見送られている。本型3隻(浅間丸、龍田丸、秩父丸)用に開発されていた艤装は、新田丸級貨客船/大鷹型航空母艦3隻〔新田丸(冲鷹)、八幡丸(雲鷹)、春日丸(大鷹)〕の空母改装時に流用された。 特設運送船となった「鎌倉丸」は、太平洋戦争勃発後、主に南洋諸島方面への人員や重要物資の輸送任務に従事した。自衛用の武装として、船首と船尾の砲座に火器が据えられたほか、敵潜水艦や魚雷のスクリュー音を探知するための水中聴音機も装備されていた。優れた速度を生かせば敵潜水艦の攻撃を回避できると期待されたことや高速護衛艦の不足から、護送船団には加入せず単独航海をすることが多かった。護衛がつく場合もあり、1942年(昭和17年)6月29日には最新鋭の秋月型駆逐艦1番艦「秋月」に護衛されて横須賀を出発。スラウェシ島(セレベス島)マカッサルまで航海すると、7月17日に佐世保に帰投した(秋月は7月18日横須賀着)。 戦時中の特別な任務では、1942年(昭和17年)8月に日英交換船として本来の客船らしい航海を行っている。第1回日米交換船では日本側から浅間丸が参加していたが、日英交換船では鎌倉丸が龍田丸とともに日本側を担当することになった。7月25日、一時的に海軍から徴用を解除される。舷側に日の丸、船体各所に交換船であることを示す白十字の識別塗装を施され、船尾と上部構造物側面には白十字の識別標識が取り付けられた。船体は上部が白色、下部が黒色の平時に近い塗装となっている。8月10日、乗客を乗せずに横浜から出航、神戸でスイス外交官を乗船。上海でイギリス領事館関係者や民間抑留者ら敵性外国人903名を収容、シンガポール(当時の日本側呼称は昭南)でもイギリス人3名を乗船させた。ただし、大内健二によれば乗船者総数は910名である。航海は順調で、9月8日(大内によれば8月28日)に交換地である当時中立国であったポルトガル領東アフリカの交換地ロレンソ・マルケスに到着、乗客を下船させた。同地で待機していたイギリス側の客船「シティ・オブ・カンタベリー」から新任領事館員等と日本人合計867名、タイ王国人4名、ドイツ外交官2名、捕虜援助物資および特殊潜航艇によるシドニー港攻撃で戦死した日本兵の遺骨を引き取ると、9月11日(大内によれば9月2日)に帰途に就いた。特殊潜航艇(甲標的)隊員の遺骨四柱は、鎌倉丸乗組員が制作した骨箱に収められた。シンガポールで日本人450名とタイ人4名が下船、香港で捕虜援助物資約1,000トンを陸揚げした後、10月8日(大内によれば9月27日)に横浜へ無事に到着した。 交換船としての任務を終えた鎌倉丸は、1942年(昭和17年)10月15日から再び海軍徴用船となり、従前と同じ輸送任務に従事した。福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)によれば、鎌倉丸型各艦は春日丸級/大鷹型〔八幡丸(雲鷹)、新田丸(冲鷹)〕の空母改造が終了次第、浅間丸級を逐次空母に改造する予定であったという。しかし、3隻(鎌倉丸、龍田丸、浅間丸)とも空母に改造される機会なく沈没した。
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戦時中の行動
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RSD長官であるラッテンフーバーはヒトラーの野戦本部の確保に責任を負っていた。ヒトラーは主に東部戦線における「総統大本営(Führerhauptquartier, FHQ)」で多くの期間を過ごしており、ヒトラーがこの司令部に最初に到着したのは1941年6月であり1944年11月20日の最後の出発まで約3年半の間、計800日以上をそこで過ごしている。総統大本営にはRSDと共にFBKの隊員も警備についた。「狼の巣(Wolfsschanze)」は鉄製のフェンスで囲われ、RSDとFBKの兵士が警備しておりヒトラーのブンカーと、厚さ2メートルの鉄筋コンクリートで作られた計10個のカモフラージュされたブンカーからなった。この地域には、数人の要人の宿舎、本部職員、2つの食堂、通信所、国防軍の『総統護衛旅団(ドイツ語版)(Führer Begleit Brigade, FBB)』の兵舎があった。外周は地雷とFBBの兵士によって警備され監視塔、検問所などが配置されていた。 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件においてFBKやRSDの隊員による陰謀や暗殺未遂の計画はなく、特にFBKの隊員はヒトラーとの古い関係であり隊員の全てがヒトラーに忠誠を誓っていた。
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