戦時中の繁栄と戦後の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 06:56 UTC 版)
「シカゴ・ノースショアー・アンド・ミルウォーキー鉄道」の記事における「戦時中の繁栄と戦後の衰退」の解説
第二次世界大戦の勃発はアメリカの鉄道会社に急激な輸送量の増加をもたらした。燃料とゴムに配給制が敷かれたことにより自動車による移動が困難になった。ハイウッドのすぐ北にある陸軍のフォートシェリダンや、ノース・シカゴのすぐ南にある海軍のグレート・レイクス海軍訓練所なども影響し、ノースショアー線においても貨物と旅客の輸送量は記録的なまでに上昇した。かつてインスルを通してつながっていたシカゴ・ラピッド・トランジット・カンパニー(英語版)や同じくインターアーバンを営むシカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道から設備を借りなければならないほどノースショアー線の輸送量は増加した。 戦時中の収入は会社の破産管財人がいくつかの際立った負債を支払い、新たな再建計画を提出するのに十分なほど多かった。その後計画が承認され、新たな会社(かつてものとは別の名前)が1946年に所有権を引き受けた。 1948年に賃金の交渉に失敗し1948年春には91日間運行が停止した。この交渉は運賃と賃金の両方を引き上げることで解決したが、この会社の従業員は同業の別の地域の鉄道会社より賃金が安かった。同時に、戦後直後の自動車不足が解消し利用客が減少し始めた。三か月のストライキやそれによる賃金引上げなどの傾向によりこの鉄道会社はかなりの旅客収入を失った。1949年に会社はいくつかの不採算事業の削減を模索した。食堂車(エレクトロライナーを除く)の運行を取りやめ、運行(特にショアーライン)を削減した。ショアーラインの廃止を申し出たもののそれには失敗した。 設備更新のための投資が正当化されえないと感じた会社は副業的に行っていたウォキーガンの路面電車事業を1947年に取りやめバスに転換した。ショアーラインの電車が市街中心部へ入るために行っていた路面電車の線路への乗り入れも同時に廃止となった。1951年には副業的に行われていたミルウォーキー市内の路面電車の運行も廃止になったが、軌道は本線の電車がミルウォーキーのターミナル駅へ乗り入れるために残された。 1954年にはショアーラインの廃止を繰り返し申し立てていた。ピーク時の輸送量はまだ多かったもののその他の時間帯の輸送量が大きく減ってしまったことによりより多くの損失を生み出した。併用軌道が残り駅の数も多いこのルートは鉄道の利点を失わせていた。ショアーラインの所要時間はスコーキーバレー経由に比べ倍近くかかっていた。スコーキーバレーを通り抜けるエデンズ高速道路が1951年の終わりに完成したことは利用客の減少をまねきそれが鉄道会社の収入状態に反映された。廃止手続きは地域の強い反対を集めたものの、会社は問題を解決し廃止の認可を得た。1955年7月24日がショアーラインの最後の運行となった。ショアーラインのうちノースシカゴジャンクションからハイウッドまでのごく短い区間は車庫へのアクセスのために残された。残りの区間の線路は撤去され、大半の跡地は並行していた郊外鉄道であるシカゴ・ノース・ウェスタン鉄道に切り替えた通勤客が用いる駐車場となった。
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