戦時中の発言
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護憲派・左翼の論客として戦後活躍した堀だが、戦時中は「今や大東亜共栄圏の理想は、実現の第一歩を力強く踏み出したのである。これひとえに御稜威の然らしめるところとはいえ、又皇軍将兵の勇戦奮闘の致すところである」(昭和十八年三月『日本評論』誌掲載「総力戦政治の推進」)という戦争讃美、「我が国体の客観的認識による時、それは万世一系の天皇を中心として国家を形成、発展せしめて来たという事である。即ち天皇は国民を赤子と思し召され、国民は天皇を現人神として尊崇し奉る所謂一君万民、君民一体の国家生活を営んで来た事、これが我が国体の具体的表現である」(昭和十六年十一月『現代』誌掲載「権力と権威」)という国体讃美の論調を張っていた。『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には堀について、つぎの副題が付けられている。 堀真琴(前労農党参議院議員)“撃ちてし止まむ”の尊皇攘夷論者 — 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年
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戦時中の発言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:17 UTC 版)
第二次世界大戦中は「農婦われ」「生産の歌」「日の丸少女」「佐久良東雄」「野の旗風」「難きにつく」など数々の軍部賛美の随筆や小説を書き、それらの作品で 「戦争はありがたい。戦争は価値の標準を正しくしてくれる。そして、人間の心に等しく豊かさを与えてくれる」 「戦争はありがたい。あり余る物によって却って心を貧しくされがちな人間の弱点を追い払って、真に豊かなものを与えようとしていてくれる」 「やあ、おめでとう。マニラも陥ちたね、いや、愉快だ。全く、痛快 だ」 「無敵皇軍。何がいけない? ははゝゝゝ無敵皇軍を不穏だなんて言った腰抜野郎、今こそ出て来い。神国日本は開闢以来無敵なんだ。それを英米の倣慢野郎に気兼して、無敵皇軍と云っても書いても不可ないなんて、そんなべらぼうな話があるかつてんだ」 「いや、めでたい正月だ。マニラが、他愛もなく落ちやがった」 などと書いている。そのとき住井は40歳を過ぎていた。 しかし敗戦後、住井は自らの戦争協力の過去を積極的に偽るようになった。寿岳文章との対談では、次のように語っている。 住井 戦争中の十七、八年は私たち童話を書く人間も集められて、「童話は国策に沿って、国のためになるような童話を書け」と言われました。ある時は大蔵省、それから情報局の両方から呼び出されて……結局、命令通りに書かなければ雑誌の紙をくれない、単行本出すにも紙をくれない、といじわるしたからねえ、だから気の弱い人は翼賛会や情報局のいう通りになりましたよ。そういう会合でもそいつらと喧嘩したのはやっぱり私一人でした。寿岳 やっぱり、住井さんだ。 住井 軍の要請に従って、ある時、大蔵省や情報局の役人が、子どもに「お父さん、お母さん、今、お国は大変なんだから早く税金納めてください」と親たちを説得するようなものを書けというんですよ。だから私は、そういう童話は書けません。子どもに収税吏の下働きをさせるような、そんなまねはできません。 そう言ったら怒りましてね、みんなのいる中でさんざん私に悪態つきましたよ。(中略)みんな黙って聞いてました。書けないと突っ張ったのは私一人です。 — 「時に聴く-反骨対談」 (人文書院、1989年)p121、「住井すゑ作品集」第8巻収録 晩年、戦時中の翼賛発言を櫻本富雄に指摘された住井は「ほほほ…何書いたか、みんな忘れましたね」「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ」「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」などと放言した。 住井の説明によると、これらの翼賛的な文章は、思想犯としてたびたび検挙された夫の罰金を支払うために不本意ながら書いていたものであるという。それに対し前田均(天理大学)は、戦時中の言論弾圧は罰金程度で済むほど甘いものだったのかと疑念を呈している。前田はまた、「いずれにせよ、住井はそれ以前は、他の作家たちの戦争協力の例を挙げる一方で『書けないと突っ張ったのは私一人です』と言っていたが、それが『虚構』であることが櫻本にとって(ママ)明らかにされたわけである」とも評している。 櫻本による上掲のインタビューについて、高崎隆治は「佐多稲子をはじめ、林芙美子・吉屋信子・豊田正子・円地文子・真杉静枝など」の女性作家にも戦争協力の過去があるのに、なぜ住井だけを槍玉に挙げたのかと詰り、「同質の多数の中から特定の『一人だけ』を標的にするのは」「いじめ以外のなにものでもない」と非難した。これに対して前田は「同質の多数の中から特定の『一人だけ』をかばうのはその意図のあるなしにかかわりなく、神格化以外のなにものでもない」と批判した。
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戦時中の発言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:58 UTC 版)
平和運動に邁進した末川だが、戦時中は著書で「事あらば命に従って急に赴くの用意と覚悟とのもとに平常時よりも一段とさかんな意気と感激をもって学問に精進することを要する。将来をになう者としての自覚と責任感、そして同年配の友の多くが銃をとりハンマーをにぎりしめている雄姿を思うての反省、それらによって学問への熱意はいよいよ高めらるべきである」(『歴史の側面から』中央公論社、1942年)という発言をしていた。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には末川について、つぎの副題が付けられている。 末川博(立命館大学学長)学徒出陣を堂々と強調 — 『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』全貌社、昭和32年
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