昭和十八年
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「磯風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「昭和十八年」の解説
1943年(昭和18年)1月5日より、ラバウルからラエへ陸軍第51師団の一部などを輸送する十八号作戦に参加。これは陽炎型5隻(谷風、浦風、浜風、磯風、舞風)が「ぶらじる丸」、「妙高丸」、「くらいど丸」、「日龍丸」、「智福丸」を護衛するものであった。「磯風」は「浜風」とともに前年12月28日にラバウルに到着。船団は1月5日にラバウルから出発したが、途中空襲で「日龍丸」が沈み、7日にラエに到着した後にも「妙高丸」が被弾擱坐した。揚陸完了後、1月8日に船団はラエ発。1月10日、船団はアメリカ潜水艦「アルゴノート」の攻撃を受けた。上空を哨戒中であった航空機や「舞風」の攻撃後、「アルゴノート」は突然艦首を海面から突き出し、それに対して「磯風」と「舞風」は砲撃を行い「アルゴノート」を撃沈した。同日、船団はラバウルに到着。 14-15日、駆逐艦秋月、時津風、嵐、黒潮、谷風、浦風、浜風、舞風と共にガ島輸送に成功。同日、米潜水艦と交戦、撃沈を報告している。23日、舞風とレカタ輸送任務を実施する。26日、舞風、喜山丸とコロンバンガラ輸送任務を実施。同時期、日本海軍はレンネル島沖海戦で米戦艦2隻・巡洋艦3隻を撃沈してアメリカ軍の行動を一時封止したと判断(実際は重巡洋艦1隻沈没、駆逐艦1隻大破)。劣勢に追い込まれていたガダルカナル島からの撤退作戦ケ号作戦を発動する。第17駆逐隊の4隻も同作戦に従事した。 詳細は「ガダルカナル島撤収作戦」を参照 磯風は三次にわたるガ島撤収作戦の総てに投入された。第二次撤収作戦時の磯風は、ガ島最前線で指揮をとっていた第十七軍司令部および歩兵第16連隊司令官と同連隊軍旗を収容した。この際、救助され磯風に乗艦したばかりの第十七軍司令官百武晴吉陸軍中将を、磯風乗組員がビンタするという珍事も起きた。第十七軍参謀長宮崎周一陸軍少将は、磯風乗艦時の事を陣中日誌に以下のように記述している。 日没稍々前軍司令部ハ二梯団トナリ揚陸点ニ向ヒ薄暮海岸付近ノ糧秣交付所ニ至リ時ノ至ルヲ待ツ、駆逐艦ノ入泊ハ予定ノ如ク予メ回航セル大発ニ依リ混雑ナク浜風ニ移乗ス、約一時十分ニシテ第四揚陸点約千百名ノ乗艦ヲ終了ス、極メテ順調、敵ノ妨害ナシ天佑々々愈々身ヲ駆逐艦ノ士官室ニ置キ司令官ト共ニ煙草ニ火ヲ点シタル時ノ万感交々ハ筆舌ニ表シ難シ、我命ヲ全ウシ得ルヲ喜ヘルヤ否然ラス、行動不如意ノ将兵ノ身上胸中、第三次果シテ成功スルヤノ心配、之ニテ愈々嫌応ナシニ明日ハ「エレベンタ」ニ揚陸セサルヘカラス、何ノ顔有テカ人ニ見エン、曰ク何々曰ク到底筆ニシ難シ艦内ニテハ歩兵第二十九聯隊軍旗及同聯隊長ト同室ス、聯隊長堺大佐ハ予カ曩ニ「ガ」島上陸ノ為十月二十九日飛行艇及駆逐艦ヲ共ニス真ニ奇縁ト謂フヘシ、船中第一線奮闘ノ状ニ就テ機多知ルヲ得タリ浜磯風風艦長神浦少佐温和端正ナル容子ママ決シテ海ノ猛者タル観ナキモ其謂フ処頗ル我意ヲ得テ敬意ヲ表ス「今頃吾等任務ハ陸兵ヲ輸送スルニ在リ、任務ノ為ニハ最善ヲ尽スヘク、推進機ヲ海底ニツケテハ困リマスカ艦首位ハ少々ツッ込ミマシテモ反転スレハ何デモアリマセン、夫レテ泊地ヲ努メテ岸ヘ近付マシタ」ト実ニ言ノ如シ、第一次第二次共本艦ハ泊地ヲ最モ近ク推進シ、今回ノ如キ或ハ三、四百米ニアラスヤト察セラル、之海軍魂ニシテ此意気アリテコソ従来ノ偉大ナル戦果ヲ収メ得タルナリ、実行部隊指揮官ノ意気ハ誠ニ貴フヘク敬スヘキナリ二三〇〇稍前発航ノ音ヲ聞ク、愈々「ガ」島ヲ離レントス、任務ハ同島ニ散華セル将兵ハ、残留将兵ノ心中ト将来ハ万感特ニ尽キス、携行ノ握飯ニテ空腹ヲ医シ、接待ノ「パイナップル」缶詰ニ舌鼓ヲ打ツ、疲労ト精神ノ弛緩カ屡々マドロム、海上極メテ平穏、後半夜月出タル筈ナルモ灯管シテ望ム能ハス — 大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌 364-365ページ(昭和18年2月4日記事) 17駆の救助人数は、第一次撤収作戦(谷風408名、浦風771名、浜風807名、磯風1075名)、第二次撤収作戦(谷風が208名、浦風が790名、浜風が634名、磯風が1174名)、合計5876名と記録されている。第三次撤収作戦中の2月7日午後4時前後、磯風はアメリカ軍機の空襲を受けて損傷する。爆弾2発が1番砲塔前後に命中し艦首部分を損傷、大火災が発生し舵も故障した。スクリューが出るほどの浸水被害が生じた。駆逐艦長月や時津風が曳航しようとしたが断り、17ノットで戦場を離脱した。駆逐艦江風に曳航されたという証言もある。この被弾で24名が戦死、7名が負傷した。共にケ号作戦に参加した五月雨からは、磯風の一番砲塔下の船体が大きく損傷し、右から左へ筒抜けになっている光景が見られた。 ショートランド泊地に到着すると救難船長浦丸の支援により応急修理を実施、11日にラバウルへ回航すると工作艦山彦丸により一番砲塔を撤去・船体補強を行う。トラック泊地へ移動後、3月22日に出発、3月29日に呉へ到着した。この時、南雲忠一海軍中将が大破した磯風を視察し「これほど損傷した艦をよく連れ帰ってくれた」と乗組員を賞賛した。南雲中将は乗組員に、山口県湯田温泉への慰安旅行を贈っている。磯風は7月まで呉工廠で修理に従事する。この間、着任したばかりの横暴な士官に対する下士官兵全員が参加した殴打事件があった。艦長は熟慮した結果、兵の士気を考慮して兵の反乱で負傷した士官を退艦させている。 7月上旬に修理が完了、磯風は機動部隊指揮官小沢治三郎第三艦隊司令長官指揮下の第一航空戦隊や重巡洋艦を護衛し、トラック泊地に進出する。陸軍南海第四守備隊と軍需物資を各艦に便乗させて呉を出発、7月15日にトラック泊地へ進出した。磯風他はトラック泊地(停泊15-19日)を経由して21日にラバウル到着。艦隊の再編が行われ、第十戦隊旗艦を軽巡阿賀野から駆逐艦萩風に一時変更、乙部隊(水上機母艦日進、萩風、嵐、磯風)はブーゲンビル島ブインへの、61駆逐隊(涼月、初月)はブカへの輸送作戦に従事することになった。利根から嵐に、筑摩から萩風に、大淀から磯風に、それぞれ燃料補給が行われた後、乙部隊はラバウルを出撃する。ショートランド北口オバウ島北方20浬付近を航行中の22日13時45分、中央日進、日進の右前方3kmに萩風、同艦左前方3kmに嵐、同艦後方3kmに磯風という対潜水艦警戒陣形で進む乙部隊は、雲間より出現したB-17爆撃機とアメリカ軍急降下爆撃機の空襲を受ける。零戦は16機が配備されていたが、アメリカ軍戦闘機30機以上・爆撃機46機の前に為す術もなかった。水上機母艦日進は爆弾6発の命中により14時3分に沈没。第七戦隊整備員35名と陸軍兵を含め約1100名が戦死した。磯風達は生存者の救出にあたるが、16時30分前後にふたたびB-17が襲来したため救助作業は中止され、本来の目的であるブインへの輸送作戦を遂行する。18時-20時にかけて人員746名と軍需品の揚陸を行うと日進の沈没地点に戻り救助を行うが、22時55分にアメリカ軍機襲来により断念された。23日、萩風、嵐、磯風はラバウルに帰着した。貴重な高速大型輸送艦日進の沈没は、1943年3月初頭ニューギニア島ラエに向かう増援部隊がダンピール海峡で全滅したビスマルク海海戦の再現になってしまった。 その後、第4駆逐隊と分離してトラック泊地に戻っていた磯風は、8月6日に再びトラックを出発。第五戦隊、第61駆逐隊(涼月、初月)と共に南海第四守備隊第三次部隊をラバウルへ進出させた。8月8日のラバウル着後、磯風は他艦と別れ、南東方面部隊に編入された。 「時雨 (白露型駆逐艦)#ソロモン海の戦い」も参照 アメリカ軍が制空権も制海権も掌握しつつある中、磯風は南東方面部隊に編入されソロモン諸島海域で活動を続けた。8月17日、駆逐艦漣(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐座乗)、浜風、時雨と共に第一次ベララベラ海戦を戦う。8月25日以降、浜風、磯風、時雨はサンタイサベル島レカタ基地(呉鎮守府第七特別陸戦隊)撤収任務に従事。撤退作戦は成功したが、空襲により浜風は損傷、内地に回航された。9月28日、コロンバンガラ島からの撤退作戦「セ号作戦」第一回撤退作戦に参加、磯風、時雨、五月雨は第一夜襲隊を編成して撤退作戦を掩護した。10月1日、磯風、時雨、五月雨、望月は第二回撤退作戦に参加、アメリカ軍駆逐艦隊と交戦し、戦果はなかったものの撤退作戦は無事に完了した。一連の撤退作戦で1万2000名がコロンバンガラ島からの脱出に成功した。5-6日、ベララベラ島からの撤退作戦に従事。その最中に生起した第二次ベララベラ海戦に駆逐艦秋雲(三水戦司令官伊集院松治大佐座乗)、風雲、夕雲、五月雨、時雨と共に参加。「巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈、駆逐艦3隻撃沈」という報告とは裏腹に、実際のアメリカ軍損害は駆逐艦1隻沈没、駆逐艦2隻大破、日本軍は駆逐艦夕雲の喪失であったが、ベララベラ島からの日本軍撤退は成功した。 10月30日、磯風と浦風はトラックにて第十四戦隊司令官伊藤賢三少将の指揮下に入り、カビエンに向かう陸軍第17師団輸送船を護衛することになった。輸送任務は三次にわけて行われ、第十四戦隊、第17駆逐隊(浦風、磯風)、清澄丸、護国丸は第二次輸送任務を担当した。11月1日、駆逐艦雷の駆逐艦長だった前田実穂少佐が着任する。当初は部下に厳しく接したため敬遠されたが、操艦の妙を発揮して、乗組員の信頼を集めた。同日、第二輸送隊はトラックを出港した。 11月3日、アメリカ軍B-24爆撃機の空襲により那珂が戦死7名重傷者20名という損害を出す一方、特設巡洋艦清澄丸は被弾浸水して航行不能となる。同船の曳航を五十鈴が行い、那珂、磯風および途中合流した水無月はその護衛にあたった。浦風と護国丸は先行してラバウルに向かった。11月4日、磯風等はニューアイルランド島カビエンに到着。ラバウルより到着した軽巡洋艦夕張をふくめ、各艦は清澄丸より物資人員を転載した。磯風は兵員236名、山砲2門等を受け入れた。14時18分、五十鈴は機雷に触れるが損害は軽微であった。出港時の16時29分、磯風は左舷後部に触雷し小破、同乗していた陸軍兵あわせて63名の負傷者を出す。このため磯風はカビエンに残置された。同日附をもって17駆(磯風、浦風)は遊撃部隊に編入される。トラック泊地の工作艦明石に接舷して応急修理をしたのち、内地回航部隊(妙高、羽黒、磯風、時雨、白露)はそれぞれ日本本土へ向かった。11月18日呉に到着、磯風は呉海軍工廠で修理する。12月28日、修理完成。
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