昭和十九年初旬の行動
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「雪風 (駆逐艦)」の記事における「昭和十九年初旬の行動」の解説
1944年(昭和19年)1月4日、雪風は天津風、空母千歳と共に第一海上護衛隊司令官の指揮下に入った。10-11日、第16駆逐隊の雪風、天津風は千歳と輸送船4隻を含むヒ三一船団(運航指揮官細谷資彦大佐)を護衛して北九州の門司を出発、シンガポールに向かった。1月16日、雪風は浮上する米潜水艦を発見。すると天津風が米潜水艦の攻撃に向かい、雪風は船団護衛に戻った。直後、天津風が米潜水艦レッドフィンの雷撃で艦橋を含む艦前部を切断喪失して漂流、古川駆逐隊司令も戦死した。輸送船団はそれ以上の被害を受けることなく1月20日シンガポール到着。天津風は行方不明の後、1月23日に船体後部が漂流しているところを捜索機に発見され駆けつけた若竹型駆逐艦朝顔の曳航によりサイゴンに回航された。1月25日、ヒ三二船団の輸送船6隻(御室山丸、建川丸、北陸丸、玄洋丸、黒潮丸、鮫島丸)を護衛してシンガポールを出撃、途中でマニラから来た海防艦三宅(天津風の代艦)が船団に合流する。2月1日、船団は米潜水艦ホエールの雷撃で撃沈された輸送船たるしま丸の生存者多数(救難用ハシケ乗船、漂流13日目)を発見、三宅は54名、雪風は57名を救助した。2月3日(4日とも)千歳は分離して佐世保入港、その他は門司に到着した。雪風は三宅からたるしま丸の生存者を受け入れた。2月5日、雪風と千歳は原隊に復帰している。 2月13日、雪風は空母千歳によるサイパン島航空機輸送任務を護衛するため横須賀を出発。鹿児島で千歳、初霜と合流後、26日にサイパン到着。続いて29日(1944年は閏年だった)、雪風と初霜は千歳を護衛して日本へ向けサイパンを発つが、3月1日、安藝丸船団(安藝丸、崎戸丸、東山丸。護衛駆逐艦朝霜、岸波、沖波)が米潜水艦の雷撃による被害を受けたとの連絡を受け千歳の護衛任務を中断。千歳と分離後、安藝丸船団の救助へ向かう。4日、東山丸をグアムまで護衛すると、更に陸軍兵団を横須賀まで運ぶよう命令が追加される。初霜、東山丸と共にサイパンへ向かい千歳と合流した後、陸軍兵団を乗せた雪風は千歳、東山丸を護衛して7日サイパンを出発、11日に横須賀に到着した。 3月18日、横須賀から徳山沖へ回航後、19日に空母瑞鳳と合流、3月21日、神戸沖で駆逐艦山雲と合流し横須賀まで瑞鳳を護衛した。横須賀到着後に館山へ移動した後、今度は千歳を護衛して西日本へ向かった。雪風は既に2隻の空母(瑞鳳、龍鳳)のサイパン・グアム輸送任務護衛艦に指定されており、伊良湖水道で龍鳳達と合流した後、軽巡洋艦能代、駆逐艦山雲、初霜と共に瑞鳳、龍鳳の護衛任務に就いた。31日、輸送部隊から能代が分離してパラオへ向かい、4月1日には空母龍鳳と護衛の初霜が分離した。4月2日、サイパンにて物資揚陸を行う。アメリカ軍機の空襲や大部隊接近の警報があったものの、各艦とも被害はなく、輸送任務は成功した。4月7日、呉に到着。入渠整備を行うが、新たな護衛任務のため工期を短縮して出渠。4月21日、雪風は島風、早霜と共に戦艦大和、重巡洋艦摩耶を護衛しリンガ泊地へ向かった。5月1日、リンガ泊地に到着。この頃、相次ぐ任務が重なった雪風の行動を連合艦隊司令部が把握できなくなり、新兵を送り込めなくなると言う珍事が発生している。
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