昭和十八年の戦い
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「浦風 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「昭和十八年の戦い」の解説
ガダルカナル島の戦局が絶望的になる一方、日本軍は東部ニューギニア重視の方針を打ち出した。12月24日附で第十八戦隊(軽巡龍田)の解隊にともない、同戦隊司令官松山光治少将もニューギニア方面護衛隊指揮官の職を解かれる。そこで外南洋部隊は駆逐艦浦風、谷風、浜風、磯風、舞風をもって東部ニューギニア方面護衛隊を編成した。5隻は12月27日〜1月3日にかけてラバウルへ集結。1943年(昭和18年)1月4日、陽炎型駆逐艦5隻(浦風、谷風、浜風、磯風、舞風)は輸送船5隻(ぶらじる丸、妙高丸、くらいど丸、日龍丸、智福丸)を護衛してラバウルを出撃、ニューギニア島のラエ(フォン湾)を目指す。アメリカ軍機の波状攻撃により日龍丸が沈没、揚陸中に妙高丸が擱座したが零戦隊や日本陸軍戦闘機隊の援護を受けてラエ輸送は成功裡に終わった。輸送船団がラエに入泊すると浦風は日龍丸の沈没現場に引き返し、舞風や伊25潜水艦と共に生存者を救助している。 第十八号作戦を終えた第17駆逐隊は再び増援部隊に編入され、ガダルカナル島撤退作戦に備えた増援輸送に従事した。ラバウルからショートランド泊地へ移動後、駆逐艦9隻(警戒隊《秋月、黒潮、時津風、嵐》、輸送隊《谷風、浦風、浜風、磯風、舞風》)でガ島輸送を実施。輸送任務は成功したが帰路の空襲で嵐が航行不能となり、谷風《艦長戦死》、浦風が小破している。1月下旬、ガ島撤退作戦において駆逐艦輸送が失敗した場合の予備手段として大発動艇を用いた撤収作戦が立案され、外南洋部隊と日本陸軍はラッセル諸島(ルッセル諸島)を占領することになった。第16駆逐隊司令(司令駆逐艦時津風)の指揮下、駆逐艦6隻(警戒隊《時津風、黒潮、白雪》、輸送隊《浦風、浜風、江風》)で輸送を実施、1月28日深夜に揚陸を終えた。6隻は29日にショートランドへ戻った。 詳細は「ケ号作戦」を参照 2月上旬、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)は三回にわけて実施されたガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に全て参加。第一次作戦では第10駆逐隊の巻雲が沈没、第二次作戦では4駆の舞風が中破、第三次作戦では17駆の磯風が大破してそれぞれ戦線離脱を余儀なくされた。2月11日、第17駆逐隊(谷風、浦風)は外南洋部隊支援隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官)の重巡2隻(熊野、鳥海)を護衛してニューアイルランド島のカビエンを出発、13日にトラック泊地へ到着。トラック泊地で重巡鈴谷と熊野が揃うと同時に、3隻(鳥海、谷風、浦風)は西村少将の指揮下を離れた。 2月15日から17日、「浦風」はウェワクへ進出する空母瑞鳳飛行隊の基地員をトラックからウェワクへ輸送した。2月17日、「浦風」と救難艦「雄島」は駆逐艦「春雨」(1月24日に潜水艦の雷撃を受けて損傷)を曳航する駆逐艦「天津風」とともにウェワクから出港。19日、「天津風」と「春雨」を結ぶ曳航索が切断、「浦風」が「春雨」の曳航を引き継いだ。21日、悪天候によって春雨は艦前部の切断を余儀なくされ、23日トラック泊地着。天津風、浦風、雄島は工作艦明石に春雨を引き渡した。 3月22日、重巡熊野の機関に故障が発生した。3月24日、天津風に警戒されつつ3隻(鈴谷、熊野、浦風)はトラック泊地を出発、天津風分離後は諸訓練を実施しつつ北上し、豊後水道で駆逐艦萩風と合同、3月29日呉に到着した。その後トラック泊地に戻る。 4月以降「浦風」は以下のような輸送船団護衛に従事した。 第三次ウェワク輸送 - 第四十一師団歩兵第二百三十七連隊などのウェワクへの輸送で、駆逐艦「天津風」、「第二十六号駆潜艇」、「第三十四号駆潜艇」とともに輸送船5隻を護衛。4月26日にパラオから出発し、5月1日にウェワク到着。同日揚陸を完了しパラオへ向かった。 第四次ウェワク輸送 - 野戦高射砲第六十二大隊などのウェワクへの輸送で、「天津風」、「第三十四号駆潜艇」とともに「新玉丸」ほか輸送船4隻を護衛。5月8日にパラオから出発し、5月13日にウェワクに到着して揚陸し、5月17日にパラオに帰投。 第五次ウェワク輸送 - 独立照空第七中隊、第四十野戦道路隊などのウェワクへの輸送で、「第二十六号駆潜艇」とともに輸送船を護衛。6月10日にウェワクに到着。 第三次ハンサ輸送 - 第二十師団歩兵第七十八連隊第一大隊、野戦高射砲第六十三大隊などのハンサ湾への輸送で、「天津風」とともに輸送船3隻を護衛。5月23日にパラオから出発し、5月28日にハンサ湾に到着。翌日揚陸完了し、6月3日にパラオに帰投。 第四次ハンサ輸送 - 歩兵第七十八連隊主力などのハンサ湾への輸送で、「天津風」とともに輸送船5隻を護衛。6月21日にパラオから出発し、6月27日にハンサ湾に到着。同日中に揚陸完了し、7月2日にパラオに帰投。 第六次ウェワク輸送 - 「浦風」、「白鷹」とともに輸送船3隻を護衛して7月6日にウェワクに到着。7月17日パラオに帰投。 7月17日附で「天津風」、「浦風」は外南洋部隊から除かれ、トラック泊地へ回航された。その後、内地へ帰投。8月1日、天津風、浦風は重巡青葉、給糧艦伊良湖を護衛して呉へ到着した。 10月30日、第17駆逐隊(浦風、磯風)はトラックにて第十四戦隊(司令官伊藤賢三少将)の指揮下に入り、第十四戦隊(旗艦/那珂、五十鈴)、軽巡2隻(多摩、木曾)、第4駆逐隊(野分、舞風)及び駆逐艦山雲と共にカビエンに向かうT四號輸送部隊(陸軍第17師団)の輸送船団を護衛する事になった。第十四戦隊(那珂、五十鈴)、第17駆逐隊(浦風、磯風)、輸送船2隻(清澄丸、護国丸)は第二次輸送任務を担当した。11月3日、アメリカ軍機の空襲により那珂が損傷を受け、特設巡洋艦清澄丸は被弾浸水して航行不能となる。浦風、護国丸は先行してラバウルに向かい11月4日に到着したが、磯風は触雷して小破し修理のためラバウルへ進出できなかった。また浦風も第十戦隊の僚艦阿賀野、初風、若月が参加したブーゲンビル島沖海戦に間に合わなかった。 詳細は「ろ号作戦」を参照 詳細は「ラバウル空襲」を参照 11月5日、浦風以下第十戦隊、第二水雷戦隊、栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊はラバウルでアメリカ軍の機動部隊艦載機による大規模空襲に遭遇する(11月5日第一次ラバウル空襲)。摩耶が大破、愛宕、高雄、最上、筑摩、能代、阿賀野、藤波、若月が大小の損害を受けた。11月6日、ラバウルに到着していた第十四戦隊の軽巡2隻、護国丸はトラックに向けて出発。一方、17駆(磯風、浦風)は南東方面部隊に編入されており、浦風はラバウルに留まった。同日午前、第十戦隊司令官大杉守一少将はブーゲンビル島タロキナ岬(連合国軍拠点)への逆上陸作戦を下令、浦風も第一支援隊として参加した。昼過ぎ、第一支援隊(阿賀野、若月、風雲、浦風)・第二支援隊(能代、大波、長波)・挺身輸送隊(大波、巻波、天霧、文月、卯月、夕凪)はラバウルを出撃、米艦隊と遭遇することなく、揚陸作戦は一応成功した。だが平行して実施されたろ号作戦(第一航空戦隊基地派遣隊やラバウル方面基地航空隊によるアメリカ軍機動部隊攻撃)は失敗しつつあった。 11月11日、アメリカ軍機動部隊艦載機はふたたびラバウルを空襲。駆逐艦涼波は沈没、長波は航行不能、浦風、若月は若干の損傷を受けた。吉田艦長によれば、魚雷投下時機を逸した雷撃機TBFアベンジャーが浦風に直接魚雷を投下、魚雷が煙突の上を飛び越えていく一幕もあったという。この時、第十戦隊旗艦阿賀野は後部に魚雷1本が命中して舵が故障(艦尾喪失)、大杉司令官は貫通銃創を負った。浦風は阿賀野を護衛してトラック泊地へ撤退する事になった。12日、米潜水艦スキャンプの雷撃で阿賀野は航行不能となり、大杉司令官は浦風に移乗した。附近を航海中の第二水雷戦隊各艦(能代、藤波、早波)や軽巡洋艦長良、第61駆逐隊(初月、涼月)が阿賀野の救援のために集結した。当初阿賀野は能代に曳航されていたが、曳航索が切断。その後は軽巡長良が阿賀野の前を、浦風が後曳を担当し、速力6ノットでトラックへ向かった。阿賀野は15日午後8時30分にトラック泊地へ到着。第十戦隊旗艦は阿賀野から秋月型駆逐艦秋月に変更された。
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昭和十八年の戦い
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「初雪 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「昭和十八年の戦い」の解説
1943年(昭和18年)1月、駆逐艦「初雪」は輸送船団を護衛して再びソロモン海へ進出する。「初雪」が護衛する丙一号第二輸送隊(清澄丸、靖国丸、筥崎丸)には、増援として「朝雲、五月雨」が加わった。2月上旬のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)における「初雪」は、前進部隊・警戒隊(軽巡《神通、阿賀野、長良》、駆逐艦《陽炎、朝雲、時雨、涼風、大波、初雪、敷波、嵐、五月雨》)に編入されている。「初雪、嵐」は航空部隊の空母2隻(隼鷹、瑞鳳)を直衛し、1月31日にトラック泊地を出撃。陽動部隊として行動した。 2月25日、駆逐艦「天霧、夕霧」が第11駆逐隊に編入され、同隊は白雪型4隻(初雪、白雪、天霧、夕霧)となる。だが3月3日のビスマルク海海戦で「白雪、朝潮、荒潮、時津風、輸送船8隻」がダンピール海峡に沈没すると、4月1日をもって『白雪型駆逐艦』は初雪型駆逐艦に改定された。本海戦で「初雪」は輸送船団の救援におもむき、「敷波、浦波、雪風、朝雲」と合流すると各艦に燃料を補給、生存者2700名を「初雪、浦波」に移乗させラバウルへ送り届けた(3日1650現場発、4日1015着)。「敷波、雪風、朝雲」は再び戦闘海域に戻ると遭難者を救助したのち、3月5日朝にラバウルへ戻った。 詳細は「クラ湾夜戦」を参照 6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し、ニュージョージア島の戦いがはじまる。これに対し第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に対してレンドバ島突入と米軍輸送船団撃退を下令。秋山少将直率部隊(秋月型駆逐艦《新月》、卯月型《望月、皐月》、神風型《夕凪》)、先行隊(指揮官第11駆逐隊司令:天霧、初雪、長月、三日月、水無月)はレンドバ島西方に進出したが、会敵しなかった。7月2日、秋山少将は突撃隊(旗艦「新月」、第11駆逐隊《天霧、初雪》、第22駆逐隊《長月、皐月》、第31駆逐隊《望月》)と陽動隊(軽巡《夕張》、駆逐艦《夕凪、三日月》)を率いて米軍上陸部隊砲撃に向かうが、米軍魚雷艇と交戦して2隻を撃沈、ブーゲンビル島のブインへ引き揚げた。7月4日-5日、コロンバンガラ島への輸送作戦が計画されるが、第一回輸送部隊(長月、皐月、新月、夕凪)は米軍機及び米艦隊と交戦、駆逐艦1隻を撃沈したものの輸送作戦は失敗した。そこで南東方面部隊指揮官は第三水雷戦隊に増援駆逐艦を手配し、全力での輸送作戦を命じた。 7月5日夕刻、秋山少将は支援隊(新月《第三水雷戦隊旗艦》、第24駆逐隊《涼風》、第17駆逐隊《谷風》)、第一次輸送隊(第30駆逐隊《望月、三日月》、第17駆逐隊《浜風》)、第二次輸送隊(第11駆逐隊《天霧、初雪》、第22駆逐隊《長月、皐月》)を率い、それぞれショートランド泊地を出撃した。日本艦隊は電波探知機で米艦隊の存在を察知、レーダーで日本艦隊をとらえた米艦隊(指揮官ウォルデン・L・エインズワース少将:軽巡3、駆逐艦4)も発砲し、交戦状態に入る(クラ湾夜戦)。「初雪」も砲撃戦を行い、不発弾2発を受けた。本海戦で「新月、長月」が沈没(米艦隊は軽巡「ヘレナ」沈没)、「新月」と共に秋山少将以下第三水雷戦隊司令部が全滅、輸送物件の約半分(陸兵1,600名と物資90トン)を揚陸した。損傷した「初雪、望月」はラバウルへ後退し、応急修理を実施する。新司令官着任までの間、重巡「鳥海」艦長有賀幸作大佐(かつての第11駆逐隊司令)が数日間だけ増援部隊指揮官となった。 日本海軍は戦死した秋山少将の後任として伊集院松治大佐を第三水雷戦隊司令官に任命する人事を7月7日に発令、伊集院大佐は7月10日にラバウルへ到着すると軽巡「川内」に将旗を掲げた。しかし新司令部をいきなり実戦に投入するわけにはいかず、第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦「神通」)が当面の指揮を執る。第二水雷戦隊と第七戦隊(司令官西村祥治少将)は、7月7日附で南東方面部隊に編入されていた。7月12日、コロンバンガラ島輸送作戦中の第二水雷戦隊は米艦隊と交戦、軽巡「神通」が沈没し、伊崎少将と二水戦司令部は全滅した(コロンバンガラ島沖海戦)。それでも日本海軍はクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で米軍水上部隊に大打撃を与えたと判断し、クラ湾方面での敵艦隊撃滅と輸送作戦を行う計画をたてる。第七戦隊司令官西村少将を指揮官とし、主隊(熊野、鈴谷)、水雷戦隊(川内、皐月、水無月、雪風、浜風、清波、夕暮)、輸送隊(三日月、夕凪、松風)という戦力が集結、16日2200にラバウルを進出してブインへむかった。「初雪《第11駆逐隊司令山代大佐座乗》、望月」は西村艦隊に先行して16日夕刻にラバウルを出撃、17日午前5時にブインへ入港。「初雪」は「水無月」に、「望月」は「皐月」に横付けして物件・重油の移載をおこなっていた。 7月17日朝、ブインは大型爆撃機19、戦爆約150機の大空襲を受ける。至近弾多数と艦橋後部附近に被弾した「初雪」は、浸水により水平状態で沈没(山代司令によれば、浅い水深のためマストは海面上に出ていたという)。他に「皐月、水無月」が小破、翌日にも空襲を受け「望月」が小破した。これを受けて西村艦隊は一旦ラバウルへ帰投、重巡「鳥海」を加えるなど戦力を再編したのち18日に再出撃した。19日-20日、輸送作戦には成功したものの、夜間空襲により重巡「熊野」小破、駆逐艦「清波、夕暮」沈没という損害を受けて戦果はなかった。 10月15日、「初雪」は初雪型駆逐艦第11駆逐隊、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。なおネームシップの本艦沈没後も『初雪型駆逐艦』の名称は改定されずに用いられている。
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昭和十八年の戦い
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「五月雨 (駆逐艦)」の記事における「昭和十八年の戦い」の解説
1943年1月、陸軍部隊のウェワクへの輸送(丙一号輸送)が行なわれ、その際飛行機隊をウェワクへ進出させる空母「隼鷹」を「朝雲」とともにトラックからウェワクまで護衛した。トラックからは1月15日に出発し、1月17日にウェワク沖に着いた。 続いてガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に従事する。第一次撤収作戦時で駆逐艦巻雲(第10駆逐隊)が沈没、駆逐艦巻波(第31駆逐隊)が損傷すると、東方牽制隊(愛宕《旗艦》、高雄、妙高、羽黒、金剛、榛名、神通、阿賀野、長良、陽炎、朝雲、時雨、涼風、大波、初雪、敷波、嵐、五月雨、隼鷹、瑞鳳)として外洋を行動中の四水戦2隻(朝雲、五月雨)は撤収部隊に編入された。2月4日朝、駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)はショートランド泊地に到着。第二次撤収作戦、第三次撤収作戦に従事する。第二次作戦で駆逐艦舞風(第4駆逐隊)、第三次作戦で駆逐艦磯風(第17駆逐隊)が大破・中破する中、2隻(朝雲、五月雨)は損傷なく作戦を終えた。 2月中旬から再びウェワクへの陸軍部隊輸送(第41師団主力の輸送、丙三号輸送)が実施され、「五月雨」も参加。「五月雨」の編入された第二輸送隊は2月19日にパラオから出発し、2月22日にウェワクに着いた。3月、ニューギニアのハンサ湾への第二十師団の一部などの輸送(第一次ハンサ輸送)に参加。「五月雨」と「秋雲」、「風雲」、「夕雲」、「皐月」が輸送船6隻を護衛して3月6日にパラオから出発し、3月12日にハンサ湾に到着した。帰路は「五月雨」と「秋雲」が船団を護衛してパラオへ向かったが、途中でB-17の爆撃により輸送船「桃山丸」が沈んだ。 1月24日、ウエワク輸送作戦中の姉妹艦春雨がアメリカの潜水艦ワフーの雷撃で大破、1年近い修理を余儀なくされた。3月5日、コロンバンガラ島輸送作戦従事中の姉妹艦村雨と第9駆逐隊の峯雲が撃沈された(ビラ・スタンモーア夜戦)。コロンバンガラ島に上陸していた2駆司令橘大佐・種子島洋二村雨艦長以下生存者達は、駆逐艦雪風・初雪等に便乗してラバウルへ戻った。3月25日、橘司令は五月雨に将旗を掲げたが、春雨大破長期修理のため、健在艦は五月雨のみとなっていた。 4月1日、「五月雨」、「朝雲」、「夕雲」、「風雲」、「秋雲」はショートランドへ人員、弾薬などを揚陸(コロンバンガラへの輸送予定であったが敵機の妨害のため引き返した)。4月5日、「五月雨」、「朝雲」、「夕雲」、「秋雲」はコロンバンガラへの輸送任務に従事。4月6日、ブインに帰投。輸送内容は不詳。4月10日、「五月雨」と「雪風」は輸送任務でニューブリテン島南側を通ってフィンシュハーフェンへ向かったが、敵機の攻撃を受けたため輸送を断念してラバウルへ引き返した。4月12日、「五月雨」と「雪風」はニューブリテン島北側を通って再びフィンシュハーフェンへ向かったがツルブへ目的地を変更し13日に兵員、物資を揚陸した。 一連の輸送作戦後、「五月雨」、「雪風」と第10駆逐隊は外南洋部隊から除かれ、かわって第十五駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)等がソロモン方面の輸送任務に従事することになった。 詳細は「キスカ島撤退作戦」を参照 5月8日、戦艦2隻(大和、榛名)、空母2隻(冲鷹、雲鷹)、重巡妙高、駆逐艦4隻(夕暮、潮、長波、五月雨)は日本本土へ向かう。5月13日に横須賀帰港、ただちに北方部隊に編入され、5月15日以降千島方面で対潜哨戒に従事。第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将、旗艦阿武隈)指揮下のもと、第五艦隊旗艦多摩、軽巡2隻(阿武隈、木曾)、第一警戒隊(若葉、初霜、長波)、第二警戒隊(島風型《島風》、白露型《五月雨》)、収容隊(第9駆逐隊《朝雲、薄雲》、第10駆逐隊《夕雲、秋雲、風雲》、第6駆逐隊《響》)、補給部隊(海防艦国後、タンカー日本丸)という戦力でキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)を遂行した。阿武隈と国後衝突による混乱があったが(損傷した若葉は幌筵島へ避退)、撤退作戦は成功した。 本艦が北方海域で行動中の7月1日附で、第2駆逐隊は解隊。五月雨は第四水雷戦隊司令部附属になる。7月12日、コロンバンガラ島沖海戦で第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将および第二水雷戦隊司令部は、旗艦神通と共に沈没した。そこで第四水雷戦隊は解隊され、高間司令官・司令部・戦力はそのまま第二水雷戦隊に転用された。これにより二水戦旗艦は軽巡長良に変更、時雨・五月雨等も第二水雷戦隊所属となった。8月6日、五月雨は横須賀に帰還し、9月5日まで同地で修理・整備を行った。修理完了後、中部・北部ソロモン諸島の戦いに参加すべく最前線に進出、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将(旗艦川内)の指揮下に入る。同地で既に活動していた時雨(第27駆逐隊)や磯風(第17駆逐隊)等と共に9月下旬のコロンバンガラ転進作戦(セ号作戦)に参加。10月1日、五月雨は白露型2隻(時雨、白露)になっていた第27駆逐隊に編入される。その後、三水戦司令官指揮下の駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)として、10月6日の第二次ベララベラ海戦に参加した。さらにツルブ(時雨、五月雨)、フロリダ諸島ガブツ(時雨、白露、五月雨)輸送作戦に従事した。10月21日、トラックからラバウルへ陸軍兵・軍需物資輸送任務に就いていた軽巡2隻(多摩、木曾)は空襲を受け、木曾が一時航行不能となった。五月雨は駆逐艦卯月と共に木曾をラバウルまで護衛した。 詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 11月1-2日、第27駆逐隊は連合襲撃隊に編入され、ブーゲンビル島沖海戦に参加した。第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊の戦力は、本隊(大森少将直率:第五戦隊《妙高、羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:川内、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:阿賀野、駆逐艦《長波、初風、若月》)、輸送隊(山代勝守大佐:駆逐艦《天霧、文月、卯月、夕凪、水無月》)から成る。巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の米艦隊は、まず連合襲撃隊左翼の第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露の単縦陣)と交戦した。川内(三水戦旗艦)は戦闘開始からまもなく炎上して航行不能となり、白露も同時刻に至近弾で舵故障となった。川内に続行していた時雨・五月雨・白露は互いに衝突しかけ、五月雨は白露と衝突。さらに米軍駆逐隊に追撃されて被弾したが(五月雨戦死5、負傷5)、人力操舵で離脱に成功した。他に妙高と初風が衝突。海戦の結果、日本側は川内と初風を喪失し、妙高・羽黒・五月雨・白露が損傷した。白露は2日1100ラバウル着、五月雨は14時10分の帰着であった。第27駆逐隊が発射した魚雷は(五月雨発射魚雷と推定)、駆逐艦フートを大破させたという。 11月5日、ラバウル待機中にアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け、第二艦隊司令長官栗田健男中将率いる重巡洋艦部隊(愛宕、高雄、摩耶、最上、筑摩)等が大損害を受ける一方、五月雨・時雨・天霧等に被害は無かった(ラバウル空襲)。沈没する川内から脱出した伊集院司令官は呂号潜水艦に救助されており、8日にラバウルへ到着、一時五月雨に将旗を掲げたのち、天霧を経て軽巡夕張を旗艦に定めた。11日、潜水母艦長鯨、重巡摩耶(ラバウル空襲で大破)、第二水雷戦隊(能代、早波、藤波、五月雨)、第十戦隊(風雲、若月)はラバウルを出発、トラックへ向かった。12日、軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦、艦尾切断状態)が駆逐艦浦風(第17駆逐隊)と共にトラックへ帰投中、アメリカの潜水艦スキャンプから雷撃されて航行不能となった。二水戦旗艦能代、第32駆逐隊(藤波、早波)は摩耶の護衛を中断し、阿賀野と浦風の救援に向かった。11月14日、5隻(摩耶、長鯨、五月雨、風雲、若月)はトラックに帰港する。 12月14日、五月雨は軽巡夕張と共にトラックを出港、19日に横須賀へ到着した。以後、横須賀海軍工廠で、夕張と五月雨は修理を行った。また11月31日附で、修理を終えた姉妹艦春雨が第27駆逐隊に編入される。これにより第27駆逐隊は白露型4隻(白露、時雨、五月雨、春雨)編制となった。
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