昭和十八年中盤以降の行動
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「雪風 (駆逐艦)」の記事における「昭和十八年中盤以降の行動」の解説
6月15日、前進部隊に編入された。6月16日、雪風は第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊の熊野、鈴谷、空母龍鳳、大鷹、冲鷹、軽巡洋艦五十鈴、第7駆逐隊の潮、曙、漣、第27駆逐隊の時雨、夕暮、有明、第17駆逐隊の浜風、谷風、秋月型駆逐艦新月、夕雲型駆逐艦清波らと共に16日に横須賀を出港、南方へ進出した。6月21日に到着後、雪風、浜風は第四水雷戦隊(旗艦長良)の指揮下に入り、四水戦司令官の指揮下でナウル島への輸送任務を命じられる。第一次輸送隊(浜風、谷風、第十四戦隊の那珂と五十鈴)は22日にトラックを発ち、25日ナウル島に到着。浜風のみ同地に残った。雪風は長良と共に第二次輸送隊として23日にトラックを出撃。26日4時半頃にナウル島へ到着、輸送人員と物件を揚陸した。同日8時46分、雪風、長良は浜風と合流してナウル島を出発、トラックへの帰途に就く。同隊は10時20分頃に敵の大艇を発見するが、何事もなく遠ざかった。27日、トラックへ向かう長良、雪風、浜風は、ナウルへ向かう時雨、駆潜艇28号、秋葉山丸とすれ違った。トラックに戻ると、ラバウルへ向かう重巡洋艦鳥海の護衛任務を命じられる。6月30日、雪風は第四水雷戦隊の指揮下を離れて外南洋部隊に属し、鳥海、谷風、雪風、涼風、浜風、江風(故障で引き返す)はラバウルへ向かった。その後、ブインとラバウルを往復した。7月5日、浜風、谷風護衛の元にブインからラバウルへ回航中の給油艦鳴戸を迎えるため、早朝2時に出港。同日正午頃、鳴戸、浜風、谷風と共にラバウルに帰投すると、直ぐに第十一戦隊航空司令部の人員150名と物件、大発一隻を輸送する新たな任務が命じられ、同日夕刻、鳥海、夕暮と共にラバウルを出港。翌7月6日の正午頃、ブインに入泊し人員と物件を揚陸した。 7月5日、クラ湾夜戦で増援部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官が新月 (第三水雷戦隊旗艦)沈没時に戦死し、第三水雷戦隊司令部も全滅する。新たに鳥海艦長有賀幸作大佐が増援部隊指揮官に任命され、雪風は鳥海の代艦として、7月6日から9日まで、わずか3日間だけであったが第八艦隊旗艦を務めている(八艦隊長官鮫島具重中将の所在はブインの第一根拠地隊司令部)。後任の第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将(前職、戦艦金剛艦長)は7月7日附で任命され、7月10日に旗艦川内に着任した。第三水雷戦隊の準備が整うまでの間、連合艦隊は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将、旗艦神通)を増援部隊指揮官に任命し、南東方面部隊への作戦参加を命じる。7月9日、第八艦隊長官鮫島中将は鳥海に将旗を掲げ、鳥海、川内、警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)から編成される水上部隊を率いてブーゲンビル島・ブインを出撃、コロンバンガラ島輸送には成功したが米艦隊と遭遇せず、水上戦闘は生起しなかった。警戒隊の雪風は夕暮と共にニュージョージア島ポリ岬のアメリカ軍に対して艦砲射撃を行った。 詳細は「コロンバンガラ島沖海戦」を参照 7月12日、雪風は増援部隊指揮官伊崎俊二第二水雷戦隊司令官(旗艦神通)指揮のもと、コロンバンガラ島守備隊への物資輸送に参加する。7月12日夜、日本艦隊阻止のため出動したアメリカ・オーストラリア連合艦隊の第36.1任務群との間でコロンバンガラ島沖海戦が勃発した。雪風の逆探は夜間戦闘において有効に働いた。警戒隊は先頭から三日月-神通-雪風-浜風-清波-夕暮という単縦陣を形成していた。戦闘序盤に敵軽巡1隻と旗艦神通が大破(後沈没)した後は、雪風が警戒隊の指揮を執り連合軍艦隊へ再攻撃をかける。雪風、浜風、清波、夕暮はスコールに紛れて敵駆逐艦隊の追跡を撒き、魚雷の次発装填を完了。敵本隊への再突撃の際もスコールを利用して6.5千 - 7.4千mの距離まで接近(敵艦隊は接近する雪風らの存在はレーダーで確認できたが、敵味方の区別はつかなかった)、魚雷攻撃により連合国側の軽巡2隻大破、駆逐艦1隻撃沈・2隻大破の戦果を上げ、コロンバンガラ島への上陸作戦も成功した。雪風は巡洋艦3隻撃沈を主張した。戦争・兵器・船舶史家の木俣滋郎は神通を失った後の雪風らの反撃について「日本駆逐艦の攻撃は水際立っていた」と高く評価している。この戦闘で中枢の巡洋艦が全て損傷した第36.1任務群は修理のため戦線に復帰する事ができず、以降のソロモン方面における作戦で戦力外となった。一方の日本海軍は第四水雷戦隊(司令官高間完少将、旗艦長良)を解隊し、高間少将を第二水雷戦隊司令官に任命。駆逐艦時雨以下四水戦戦力と二水戦残存部隊を合流させ、二水戦を再建することになった。 7月18日より、雪風は重巡洋艦熊野、鈴谷、鳥海、水雷戦隊(軽巡川内、浜風、清波、夕暮)と共に夜戦部隊指揮官西村祥治第七戦隊司令官に率いられラバウルを出港、翌19日に輸送部隊(三日月、水無月、松風)と合流し、これを護衛してコロンバンガラ島へ輸送に向かった。7月20日、輸送隊と分離して敵艦隊を索敵中だった雪風らの水雷戦隊はアメリカ軍機の夜間爆撃を受け、艦隊の右舷後方にいた夕暮に魚雷が命中、艦体切断により轟沈、熊野が魚雷1本命中という被害を受けた。夕暮の生存者の救助に向かった清波も2時間後の通信を最後に消息を絶ち、総員戦死と認定された。豊田穣の著書に「回頭によって艦隊の右舷先頭が雪風から夕暮に入れ替わった」と書かれているが、第七戦隊戦時日誌によれば、空襲時の右舷先頭は清波で、夕暮は右舷後方で魚雷を受けており、雪風と夕暮の位置の入れ替わりはなく、当時の記録と豊田の著書には矛盾がある。また豊田によれば、当時雪風の水雷員だった大西喬兵曹の日記の中に「夕暮が雪風の身代わりになったと噂する雪風乗員もいた」の記述があったとされる。豊田が著書で引用した大西兵曹の日記は以下の通り。 七月二十日 晴悪夢のような一夜は明けたが、敵機は執拗に接触をつづけてはなれない。味方戦闘機がこれに向かってゆく。やはり「夕暮」と「清波」は消息を絶ってしまった。「『雪風』の身代わりになったんだ」どこからともなくそう言う声が聞こえる。昨夜、反転して右側と左側が入れ代わったので、そういう見方も出てくるのであろう。「雪風」の幸運もいつまでつづくことか。残るは「雪風」と「浜風」の二隻になってしまったが、輸送隊の「三日月」「松風」「水無月」が合同して、傷ついた「熊野」等の護衛に当たる。 しかし大西兵曹は豊田の著書の15年前に日記を基にした回想記を出版しているが、大西兵曹の同日の日記は以下の通りで、大西兵曹が聞いた同僚の声は豊田の著書で書かれた内容と異なっており、身代わりになったと噂する雪風乗員に関する記述はない。 七月二十日 晴。悪夢のような夜が明けても、敵機はしつように接触をつづけ離れない。味方戦闘機が、これに向かって飛んでゆく。矢張り夕暮の姿は探せど見当たらない。「清波もおらんじゃないか」誰かの声で皆探せど、視内には発見されない。その後爆撃され沈没したのだろうか。一同沈痛な顔になる。残るは雪風と浜風のみである。まもなく、輸送隊の駆逐艦三隻と合同し、熊野を護衛する。 豊田の著書(『雪風ハ沈マズ』、1983年1月初出)と同じ年にも大西兵曹は回想記を出版しているが(『艦隊ぐらしよもやま物語』1983年4月初出)、同著の昭和18年7月20日の記述でも大西兵曹が聞いた同僚の声は「清波もおらんじゃないかー」であり、15年前と変わっていない。大西兵曹は戦後に雪風乗員らが編集した著書においても「空襲の直前に艦隊が一斉回頭し、艦隊の左右の列が入れ替わった事で雪風が命拾いをした」とする説に対し、被弾沈没せずに済んだのは強運だったが、この夜は明け方まで雪風や味方艦隊は敵数十機による激しい空襲を受けており、雪風が難を逃れたのは一斉回頭のお陰であったかは判らないと述べている。 7月21日、ラバウルに水上機母艦日進、第八戦隊の利根、筑摩、航空巡洋艦最上、軽巡洋艦大淀、第十戦隊旗艦阿賀野、同戦隊第4駆逐隊の嵐、萩風、第61駆逐隊の涼月、初月、第17駆逐隊の磯風が到着した。日進、萩風、嵐、磯風はブーゲンビル島ブインへの、涼月、初月はブカへの輸送作戦に従事することになった。だが連合国軍の大規模空襲により日進はショートランド泊地北方20浬で、搭載した戦車・重火器・物資・増援陸兵もろとも沈没した。7月23日、雪風、三日月、浜風はコロンバンガラ島への輸送を実施。初めてベララベラ島とガノンガ島間のウィルソン海峡を通過し、アメリカ軍魚雷艇12隻を撃退して揚陸に成功した。 7月25日、雪風はラバウルを出発して4日後にトラックへ到着した。8月28日、前月20日の夜間空襲で損傷した重巡洋艦熊野の呉回航を護衛し、9月2日に内地へ帰還した。呉で25mm機銃を増設すると、10月6日に空母龍鳳を護衛して出港し、19日シンガポールに到着した。往路だけで2回敵潜水艦と遭遇したが、雪風の迎撃により日本艦艇に被害は出ていない。コバルト、ニッケル、ゴムなどの材料を搭載すると、10月25日に龍鳳を護衛してシンガポールを出発し、往路と同じ海南島の三亜市を経由して11月5日呉へ帰還した。当時、第27駆逐隊司令原為一大佐は11月2日深夜から3日未明のラバウル空襲の際、敵の空襲を予見し港外に仮泊して難を逃れた雪風の姿を見ているが、雪風乗員の回想には、ラバウルで空襲を回避するため転錨したのは1943年3月の事との記述や、雪風を港外の入江に移して敵の空襲を避けたのは寺内艦長の時期だった(1943年12月に着任)との記述があり、日時や場所については関係者間の記憶の錯綜が考えられる。 12月3日をもって、第16駆逐隊の雪風と天津風、軽空母千歳は海上護衛総司令部(11月15日に設立)の指揮下に入った。11月15日から12月14日(17日とも)、雪風、千歳、天津風は、靖国丸、伊良湖の輸送船2隻を護衛して日本-トラック泊地間を往復した。12月5日、トラック島付近で米潜水艦一隻撃沈の戦果を上げたと記録している。12月7日、トラック泊地で第16駆逐隊の司令駆逐艦が天津風より雪風に変更。14日、横須賀に到着した。 12月17日、司令駆逐艦は天津風に復帰。同日、呉に帰港。雪風艦では艦長が菅間良吉中佐から寺内正道少佐に交代となり、第16駆逐隊司令も島居大佐から吉川文二大佐に交代となった。この間、雪風では3度目の改装が行われた。2番主砲塔(艦尾側)を撤去して九六式二十五粍高角機銃3連装2基を設置するなど、九六式二十五粍高角機銃(3連装、単装)がハリネズミのように増設され対空装備の強化が図られた。電探(レーダー)は前部マストに対水上用22号、後部マストに対空用13号を装備した。
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