昭和十八年中盤以降の行動とは? わかりやすく解説

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昭和十八年中盤以降の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:26 UTC 版)

雪風 (駆逐艦)」の記事における「昭和十八年中盤以降の行動」の解説

6月15日前進部隊編入された。6月16日雪風第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下、第三戦隊(金剛榛名)、第七戦隊熊野鈴谷空母龍鳳大鷹冲鷹軽巡洋艦五十鈴、第7駆逐隊の潮、曙、漣、第27駆逐隊時雨夕暮有明、第17駆逐隊浜風谷風秋月型駆逐艦新月夕雲型駆逐艦清波らと共に16日横須賀出港南方進出した6月21日到着後、雪風浜風第四水雷戦隊旗艦長良)の指揮下に入り、四水戦司令官指揮下でナウル島への輸送任務命じられる第一次輸送隊浜風谷風第十四戦隊那珂五十鈴)は22日トラック発ち25日ナウル島到着浜風のみ同地残った雪風長良と共に第二次輸送隊として23日トラック出撃26日4時半頃にナウル島到着輸送人員物件揚陸した。同日8時46分、雪風長良浜風合流してナウル島出発トラックへの帰途に就く。同隊は10時20分頃に敵の大艇を発見するが、何事もなく遠ざかった27日トラックへ向かう長良雪風浜風は、ナウルへ向かう時雨駆潜艇28号秋葉山丸とすれ違ったトラックに戻ると、ラバウルへ向かう重巡洋艦鳥海護衛任務命じられる6月30日雪風第四水雷戦隊指揮下を離れて外南洋部隊属し鳥海谷風雪風涼風浜風江風故障で引き返す)はラバウル向かったその後ブインラバウル往復した7月5日浜風谷風護衛元にブインからラバウル回航中の給油艦鳴戸迎えるため、早朝2時に出港同日正午頃鳴戸浜風谷風と共にラバウル帰投すると、直ぐに第十一戦航空司令部人員150名と物件大発一隻輸送する新たな任務命じられ同日夕刻鳥海夕暮と共にラバウル出港。翌7月6日正午頃ブインに入泊し人員物件揚陸した。 7月5日クラ湾夜戦増援部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官新月 (第三水雷戦隊旗艦沈没時に戦死し第三水雷戦隊司令部全滅する新たに鳥海艦長有賀幸作大佐増援部隊指揮官任命され雪風鳥海の代艦として、7月6日から9日まで、わずか3日間だけであった第八艦隊旗艦務めている(八艦隊長官鮫島具重中将所在ブイン第一根拠地隊司令部)。後任第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将前職戦艦金剛艦長)は7月7日附で任命され7月10日旗艦川内着任した第三水雷戦隊準備が整うまでの間、連合艦隊第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将旗艦神通)を増援部隊指揮官任命し南東方面部隊への作戦参加命じる。7月9日第八艦隊長官鮫島中将鳥海将旗掲げ鳥海川内警戒隊(雪風夕暮谷風浜風)、輸送隊皐月三日月松風夕凪)から編成される水上部隊率いてブーゲンビル島ブイン出撃コロンバンガラ島輸送には成功したが米艦隊遭遇せず、水上戦闘は生起しなかった。警戒隊の雪風夕暮と共にニュージョージア島ポリ岬のアメリカ軍に対して艦砲射撃行った詳細は「コロンバンガラ島沖海戦」を参照 7月12日雪風増援部隊指揮官伊崎俊二第二水雷戦隊司令官旗艦神通指揮のもと、コロンバンガラ島守備隊への物資輸送参加する7月12日夜、日本艦隊阻止のため出動したアメリカ・オーストラリア連合艦隊の第36.1任務群との間でコロンバンガラ島沖海戦勃発した雪風逆探夜間戦闘において有効に働いた警戒隊は先頭から三日月-神通-雪風-浜風-清波-夕暮という単縦陣形成していた。戦闘序盤に敵軽巡1隻と旗艦神通大破(後沈没)した後は、雪風警戒隊の指揮執り連合軍艦隊再攻撃をかける。雪風浜風、清波、夕暮スコール紛れて駆逐艦隊の追跡撒き魚雷の次発装填を完了敵本隊への再突撃の際もスコール利用して6.5千 - 7.4千mの距離まで接近敵艦隊は接近する雪風らの存在レーダー確認できたが、敵味方区別はつかなかった)、魚雷攻撃により連合国側軽巡2隻大破駆逐艦1隻撃沈・2隻大破戦果上げコロンバンガラ島の上作戦成功した雪風巡洋艦3隻撃沈主張した戦争兵器船舶史家木俣滋郎神通失った後の雪風らの反撃について「日本駆逐艦攻撃水際立っていた」と高く評価している。この戦闘中枢の巡洋艦全て損傷した第36.1任務群は修理のため戦線復帰する事ができず、以降ソロモン方面における作戦戦力外となった一方日本海軍第四水雷戦隊司令官高間少将旗艦長良)を解隊し、高間少将第二水雷戦隊司令官任命駆逐艦時雨以下四水戦戦力二水残存部隊を合流させ、二水戦を再建することになった7月18日より、雪風重巡洋艦熊野鈴谷鳥海水雷戦隊軽巡川内浜風、清波、夕暮と共に夜戦部隊指揮官西村祥治第七戦隊司令官率いられラバウル出港、翌19日輸送部隊三日月水無月松風)と合流し、これを護衛してコロンバンガラ島輸送向かった7月20日輸送隊分離して敵艦隊を索敵中だった雪風らの水雷戦隊アメリカ軍機の夜間爆撃を受け、艦隊右舷後方にいた夕暮魚雷命中、艦体切断により轟沈熊野魚雷1本命中という被害受けた夕暮生存者救助向かった清波も2時間後の通信最後に消息絶ち総員戦死認定された。豊田穣著書に「回頭によって艦隊右舷先頭雪風から夕暮入れ替わったと書かれているが、第七戦隊戦時日誌によれば空襲時の右舷先頭は清波で、夕暮右舷後方魚雷受けており、雪風夕暮位置入れ替わりはなく、当時の記録豊田著書には矛盾がある。また豊田によれば当時雪風水雷員だった大西兵曹日記中に夕暮雪風身代わりになったと噂する雪風乗員もいた」の記述があったとされる豊田著書引用した大西兵曹日記以下の通り七月二十日悪夢のような一夜明けたが、敵機執拗に接触つづけてはなれない味方戦闘機がこれに向かってゆく。やはり「夕暮」と「清波」は消息を絶ってしまった。「『雪風』の身代わりになったんだ」どこからともなくそう言う声が聞こえる。昨夜反転して右側左側入れ代わったので、そういう見方出てくるのであろう。「雪風」の幸運いつまでつづくことか。残るは「雪風」と「浜風」の二隻になってしまったが、輸送隊「三日月」松風」「水無月」が合同して、傷ついた「熊野」等の護衛に当たる。 しかし大西兵曹豊田著書15年前に日記を基にした回想記出版しているが、大西兵曹同日日記以下の通りで、大西兵曹聞いた同僚の声は豊田著書書かれ内容異なっており、身代わりになったと噂する雪風乗員に関する記述はない。 七月二十日 晴。悪夢のような夜が明けても、敵機しつように接触をつづけ離れない味方戦闘機が、これに向かって飛んでゆく。矢張り夕暮の姿は探せ見当たらない。「清波もおらんじゃないか」誰かの声で皆探せど、視内には発見されないその後爆撃され沈没しただろうか一同沈痛な顔になる。残るは雪風浜風のみである。まもなく、輸送隊駆逐艦三隻と合同し熊野護衛する豊田著書(『雪風ハ沈マズ』、1983年1月初出)と同じ年にも大西兵曹回想記出版しているが(『艦隊ぐらしよもやま物語1983年4月初出)、同著の昭和18年7月20日記述でも大西兵曹聞いた同僚の声は「清波もおらんじゃないかー」であり、15年前と変わっていない。大西兵曹戦後雪風乗員らが編集した著書においても「空襲直前艦隊一斉回頭し、艦隊左右の列が入れ替わった事で雪風命拾いをした」とする説に対し被弾沈没せずに済んだのは強運だったが、この夜は明け方まで雪風味方艦隊は敵数十機による激し空襲受けており、雪風が難を逃れたのは一斉回頭お陰であったか判らない述べている。 7月21日ラバウル水上機母艦日進第八戦隊利根筑摩航空巡洋艦最上軽巡洋艦大淀第十戦隊旗艦阿賀野、同戦隊第4駆逐隊の嵐、萩風、第61駆逐隊涼月初月、第17駆逐隊磯風到着した日進萩風、嵐、磯風ブーゲンビル島ブインへの、涼月初月ブカへの輸送作戦従事することになった。だが連合国軍大規模空襲により日進ショートランド泊地北方20浬で、搭載した戦車重火器物資増援陸兵もろとも沈没した7月23日雪風三日月浜風コロンバンガラ島への輸送実施初めベララベラ島とガノンガ島間ウィルソン海峡通過しアメリカ軍魚雷艇12隻を撃退して揚陸成功した7月25日雪風ラバウル出発して4日後にトラック到着した8月28日前月20日夜間空襲損傷した重巡洋艦熊野の呉回航護衛し9月2日内地帰還した。呉で25mm機銃増設すると、10月6日空母龍鳳護衛して出港し19日シンガポール到着した往路だけで2回敵潜水艦遭遇したが、雪風迎撃により日本艦艇被害出ていない。コバルトニッケルゴムなどの材料搭載すると、10月25日龍鳳護衛してシンガポール出発し往路と同じ海南島三亜市経由して11月5日呉へ帰還した当時第27駆逐隊司令原為一大佐11月2日深夜から3日未明ラバウル空襲の際、敵の空襲予見港外仮泊して難を逃れた雪風の姿を見ているが、雪風乗員回想には、ラバウル空襲回避するため転錨したのは1943年3月事と記述や、雪風港外入江移して敵の空襲避けたのは寺内艦長時期だった(1943年12月着任)との記述があり、日時場所について関係者間の記憶錯綜考えられる12月3日をもって、第16駆逐隊雪風天津風軽空母千歳海上護衛総司令部11月15日設立)の指揮下に入った11月15日から12月14日(17日とも)、雪風千歳天津風は、靖国丸伊良湖輸送船2隻を護衛して日本-トラック泊地間を往復した12月5日トラック島付近で米潜水艦一隻撃沈戦果上げた記録している。12月7日トラック泊地で第16駆逐隊司令駆逐艦天津風より雪風変更14日横須賀到着した12月17日司令駆逐艦天津風復帰同日、呉に帰港雪風艦では艦長菅間吉中佐から寺内正道少佐交代となり、第16駆逐隊司令も島居大佐から吉川文二大佐交代となったこの間雪風では3度目改装が行われた。2番主砲塔艦尾側)を撤去して九六式二十五粍高角機銃3連装2基を設置するなど、九六式二十五粍高角機銃(3連装、単装)がハリネズミのように増設され対空装備の強化図られた。電探レーダー)は前部マストに対水上用22号、後部マスト対空13号装備した

※この「昭和十八年中盤以降の行動」の解説は、「雪風 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「昭和十八年中盤以降の行動」を含む「雪風 (駆逐艦)」の記事については、「雪風 (駆逐艦)」の概要を参照ください。

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