昭和十八年末期・昭和十九年初頭の戦い
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「文月 (睦月型駆逐艦)」の記事における「昭和十八年末期・昭和十九年初頭の戦い」の解説
11月下旬、ニューブリテン島のラバウルから同島各地へ輸送作戦が実施されたが、それすら『当方面前線ニ於ケル駆逐艦輸送ノ危険性ハ前月暗期来愈々増大セリ』という状態になっていた。11月19-12月1日のガロベ輸送(夕張、巻波、天霧、卯月、夕凪)で「夕張」が小破。11月25日、「文月、秋風、夕凪」によるダンピール岬輸送を実施。11月27日と29日に「文月、水無月」によるイボキ輸送、12月1日に「文月、水無月、秋風」によるイボキ輸送を実施。12月前半は月明期のため駆逐艦輸送が出来ず、「夕張、文月、水無月、卯月」はトラック泊地へ後退して整備することになり、第三水雷戦隊司令部は12月2日をもってラバウル陸上へ移動した。12月16日附で第三水雷戦隊司令官は秋山少将から中川浩少将に交代、17日に着任した。トラック泊地へ回航中艦艇のうち「夕張」は内地へ帰投し、「文月、水無月、卯月」は19日にラバウルへ帰着、また内地修理を終えた「皐月、松風」も到着、第十一航空艦隊所属の駆逐艦「太刀風」も第三水雷戦隊の指揮下に入った。12月下旬の輸送作戦は、イボキ輸送(21日:水無月、皐月)、ガロベ輸送(22日:文月、夕凪。23日:水無月、松風。25日:文月、水無月)、ガブブ輸送(22日:太刀風《不成功》。25日と28日:松風、夕凪。26日と30日:漣、曙。29日:文月、皐月。31日:松風、皐月)であった。幾度も空襲を受けながら「水無月」22日小破以外の損害を受けなかった理由について、三水戦の戦闘詳報には『各艦ガ仮称電波探知機ノ利用ニ概ネ慣熟シ被爆前蛇行運動機銃射撃等機先ヲ制シ得ルニ至レルニ由ル処大ナリト認ム』と記載されている。 12月から1月にかけて独立混成第一連隊のニューアイルランド島カビエンへの輸送(戊号輸送)が行なわれ、南東方面艦隊もカビエン周辺の警戒と対潜掃蕩のため、第22駆逐隊(皐月、文月)を派遣することになった。1944年(昭和19年)1月3日、「文月、皐月」は輸送隊掩護のためラバウルを出撃、カビエンへ向かった。1月4日午前1時、カビエン着。戊号二号輸送部隊(重巡《妙高、羽黒、利根》、駆逐艦《白露、藤波》)が同日0433カビエン着、午前6時には揚陸を終えてトラックへ向かった。「文月、皐月」は舟艇などの後始末をして午前7時にはカビエンを出発、ラバウルへ向かう。この時、索敵中の陸上攻撃機がカビエン東約170浬に空母2隻、戦艦2隻、巡洋艦駆逐艦5隻の機動部隊を発見し、各方面に通達していた。米軍機動部隊艦載機約80機は戊第二号輸送部隊を発見できず「皐月、文月」に殺到する。2隻は直撃弾こそなかったものの、至近弾および機銃掃射により両艦死傷計40名以上を出し、撃墜15機(不確実6)を記録した。間接的に戊二号輸送部隊を護った「文月、皐月」は第八艦隊長官より表彰電を送られた。 1月前半は月明期のため輸送作戦は実施できず、「文月」を含めた各艦はトラック方面に移動していた。連合艦隊は1月15日附で第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)を南東方面艦隊に編入、18日附で「漣《書類上》、曙」を北方部隊(第五艦隊)に復帰させた。当時の南東方面部隊襲撃部隊は、一番隊(舞風、野分、山雲)、二番隊(文月、水無月、皐月、松風)、附属(夕張、天霧、夕月、秋風、夕凪)という戦力である。「文月」は1月20日、第4駆逐隊と「国洋丸」は1月22日、「秋風」は25日にラバウルへ到着。「文月、松風、秋風、山雲」により1月22-29日までツルブ輸送を実施した。1月下旬以降、ラバウルでの艦船燃料調達が難しくなり、2月上旬・中旬の月明期には襲撃部隊をトラック泊地へ後退させることになった。
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