昭和噴火による埋没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:50 UTC 版)
1935年(昭和10年)9月より小噴火を繰り返しており、1939年(昭和14年)には黒神に新しい火口ができるなど活発な動きを見せていた桜島であったが、1946年(昭和21年)1月頃より噴煙活動を開始し、3月10日に南岳の東側山腹で噴火が発生した。溶岩流は鍋山と権現山の間を抜け黒神河原に溶岩原を形成し、黒神の集落を埋め尽くして4月5日には海岸まで溶岩が到達し、海中に約2000メートル、最大幅2,000メートルにわたって溶岩が突入した。この溶岩の流出は5月25日まで続いた。 黒神の住民は40世帯ほどが鹿児島市内へ避難し、30世帯・128名が牛根村の松ヶ崎へ避難した。噴火の終息後には塩屋ケ元に48戸、宇土に62戸が黒神開拓団として入植し、畑作などを行った。しかし生活再建への道のりは遠く人手不足や降灰、二酸化硫黄の発生などにより噴火前の耕地の6分の1しか耕作されなかった。
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