昭和十八年後半以降の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 08:50 UTC 版)
「阿賀野 (軽巡洋艦)」の記事における「昭和十八年後半以降の戦い」の解説
1943年(昭和18年)11月1日、それまで輸送作戦の任務についていた阿賀野に出撃が命ぜられた。当時の阿賀野以下第十戦隊各艦は『ろ号作戦』にともなう第一航空戦隊航空隊の基地物件を輸送して、ラバウルへ進出中だった。連合艦隊司令部は阿賀野・初風・天津風・大波・巻波・長波・若月・風雲を南東方面部隊に編入した。だが駆逐艦3隻(天津風、巻波、風雲)はラバウル未到着のままだった。このあと第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊が編制され、本隊(大森少将直率:第五戦隊《重巡妙高、羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:軽巡《川内》、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:軽巡《阿賀野》、駆逐艦《長波、初風、若月》)、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:駆逐艦《天霧、文月、卯月、夕凪、水無月》)という戦力が揃った。 11月2日00時45分、時雨(第27駆逐隊司令原為一大佐)の敵艦隊発見報告をきっかけに、アーロン・S・メリル少将率いるアメリカ艦隊(巡洋艦4隻・駆逐艦8隻)との約2時間におよぶ夜戦がはじまった(ブーゲンビル島沖海戦)。当時の日本艦隊は、主隊(妙高、羽黒)が中央、第一警戒隊(川内、時雨、白露、五月雨)が主隊左前方、第二警戒隊は(阿賀野、長波、初風、若月)の順番で主隊右前方を航行していた。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、妙高と初風の衝突を招いた。主隊(妙高、羽黒)が射撃を開始したのは時雨の報告から26分後の午前1時16分であり、主隊(妙高、羽黒)の右側にいた第二警戒隊(阿賀野、長波、若月)も戦局にまったく貢献できなかった。本海戦は日本艦隊の完全敗北で終わった。日本側はアメリカ軍輸送船団の撃滅に失敗、アメリカ軍上陸拠点の排除に失敗し2隻(軽巡《川内》、駆逐艦《初風》)を喪失した。阿賀野以下日本艦隊は11月2日午前9時以降、順次ラバウルへ帰投した。 詳細は「ラバウル空襲」を参照 11月5日と11日、連合軍の空母機動部隊(サラトガ、プリンストン)がラバウル停泊中の帝国海軍艦艇に空襲を敢行した(ラバウル空襲)。11月5日の空襲直前、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の遊撃部隊(重巡7隻《愛宕、高雄、摩耶、鳥海、鈴谷、最上、筑摩》、軽巡《能代》、駆逐艦5隻《玉波、涼波、藤波、早波、島風》)がラバウルに進出(またはラバウル近海で行動)。まとめて空襲に曝された遊撃部隊・連合襲撃隊・第二水雷戦隊は大打撃を受けた。阿賀野も高角砲一基が使用不能となり、重軽傷11名を出した。 11月11日のラバウル空襲では阿賀野の艦尾に魚雷1本が命中、艦尾から艦体10m程をもぎとられ、4軸スクリューのうち内側の2軸も喪失した。最大発揮可能速力18ノットに低下。他に夕雲型10番艦涼波(第32駆逐隊)が沈没、夕雲型4番艦長波(第31駆逐隊)が大破した、数隻(浦風、若月)が若干の被害を受けた。また機銃掃射により阿賀野座乗の大杉司令官は重傷を負った。これを受けて南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は水上艦艇のトラック回航を下令。同日午後2時、阿賀野は麾下の駆逐艦浦風(第17駆逐隊)に護衛されてトラック泊地へむかった。舵がないため、スクリューの回転数を調整して針路を変更したという。また阿賀野と浦風間にロープを渡し、浦風が代用舵となった。11月12日、トラック南西40浬を航行中の2隻(阿賀野、浦風)はアメリカ軍のガトー級潜水艦のスキャンプ (USS Scamp, SS-277)から捕捉され、阿賀野はスキャンプの二度にわたる魚雷攻撃を受けた。艦橋下部に命中した魚雷により前部缶室は浸水、機械も停止して航行不能となった。戦死者90名を出し、大杉司令官は阿賀野から浦風へ移乗し、旗艦を浦風に変更した。 同時刻、第二水雷戦隊(阿賀野型姉妹艦/旗艦能代、駆逐艦《藤波、早波、五月雨、風雲、若月》)は、潜水母艦長鯨とラバウル空襲で大破した高雄型重巡4番艦摩耶(第四戦隊)を護衛してトラック泊地にむかっていた。二水戦(能代、藤波、早波)は摩耶護衛を中断して阿賀野の救援におもむき12日夜半着、能代は阿賀野の曳航を開始した。トラック泊地からも軽巡長良と秋月型2隻(初月、涼月)が救援にむかい、13日中に合流した。14日、波浪により能代〜阿賀野間の曳索が切断したため、長良が阿賀野曳航を行うことになる。15日20時30分、阿賀野及び護衛部隊はトラック泊地に帰投した。11月17日、松原博大佐(阿賀野艦長)は翔鶴型航空母艦1番艦翔鶴艦長へ転任(翔鶴がマリアナ沖海戦で沈没するまで翔鶴艦長を務める)。後任の阿賀野艦長は松田尊睦大佐(当時大鷹型航空母艦1番艦大鷹艦長)となった。12月3日、阿賀野損傷時に負傷した大杉司令官は退任、木村進少将(初代第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官職に就いた。12月下旬、第十戦隊に阿賀野型3番艦矢矧が編入される。ただし、矢矧は内地にあって訓練中であった。 この時点での阿賀野の被害の状況は3番主砲の直後で船体が切断し後部を喪失、舵と内側の推進器が2軸とも無かった。また右舷船底、艦橋と煙突の中間付近に長さ約12m、幅は最大約7mの魚雷による破口があり缶室を破壊、更に中央隔壁にスプリンターによる穴があり、反対舷の缶室まで浸水していた。このため吃水は上甲板まで1mもなく、沈没寸前の状況だった。工作艦明石による応急修理は、ケーソンを当てて破口を塞いで缶室を排水、艦尾の切断部分には仮の舵を左右に1枚づつ装着し、航空機用デリックのウインチのドラムまでワイヤを伸ばして順回転で面舵、逆回転で取舵に操舵できるようにした。その他に前部艦底には浮力確保のため空のドラム缶400個を収納した。機関は5号、6号缶2基と前部機械室の主機を使用して外軸の推進器を回し、1944年(昭和19年)2月14日の試運転では14ノットまで航行可能と確認された。
※この「昭和十八年後半以降の戦い」の解説は、「阿賀野 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「昭和十八年後半以降の戦い」を含む「阿賀野 (軽巡洋艦)」の記事については、「阿賀野 (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 昭和十八年後半以降の戦いのページへのリンク