昭和十八年後半の戦い
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「文月 (睦月型駆逐艦)」の記事における「昭和十八年後半の戦い」の解説
修理を終えた「文月」は8月21日に佐世保を出発、サイパンとトラック泊地に短期間滞在したのち、9月上旬以降ラバウルへ進出して第三水雷戦隊(司令官伊集院松治大佐)と合流する。「文月」修理中に駆逐艦「初雪、三日月、長月」が沈没し、第三水雷戦隊は軽巡「川内」以下第11駆逐隊(天霧、夕霧)、第30駆逐隊(卯月、望月)、第22駆逐隊(文月、皐月、水無月)となっていた。この頃、ニュージョージア島の戦いにおける日本軍の敗北は決定的となり、コロンバンガラ島からブーゲンビル島への撤退作戦(セ号作戦)が発動される。それに向けて従来の襲撃部隊(磯風、時雨)等に加え、駆逐艦「夕雲、風雲、秋雲、皐月(修理完了9月16日進出)、水無月(修理完了9月17日進出)、五月雨」が逐次増援部隊に加わった。9月20-22日、ブカ島第一次輸送隊(時雨、松風)・ブイン輸送隊(皐月、文月)・ブカ島第二次輸送隊(天霧、松風)はラバウルからブカ島もしくはブインへの輸送作戦を実施した。9月28日-30日、襲撃部隊(夜襲部隊《旗艦「秋雲」、磯風、風雲、夕雲、時雨、五月雨》、輸送隊《皐月、水無月、文月》、警戒隊《天霧》、陽動隊《松風》)と舟艇機動部隊(指揮官種子島洋二少佐:水雷艇、大発動艇部隊)はセ号作戦第一次撤収作戦を実施した。10月1日、襲撃部隊に駆逐艦「夕凪」を加えて第二次撤収が実施された。米艦隊・魚雷艇の攻撃により大発動艇部隊に被害を出したが、『セ号作戦』は概ね成功した。 コロンバンガラ島からの撤退に伴いベララベラ島を維持する必要がなくなったため、第八艦隊は南東方面艦隊の反対を押し切る形で同島守備隊(鶴屋部隊)の撤退作戦を発動した。参加兵力は、夜襲部隊(三水戦司令官伊集院大佐直率、秋雲《旗艦》、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)、輸送部隊(文月、夕凪、松風)、収容部隊(第31駆潜隊、艦載水雷艇、大発動艇)及び護衛戦闘機である。これを迎撃するため米軍駆逐艦6隻が出動し、このうち3隻が第三水雷戦隊と交戦した(10月6日-7日第二次ベララベラ海戦)。日本側は「夕雲」が沈没、米軍は「シュバリエ」が沈没し他2隻が大破、ベララベラ島からの鶴屋部隊撤収も成功した。 第三水雷戦隊は休む間もなくラバウル周辺(ニューブリテン島やブーゲンビル島)への輸送作戦に従事した。10月8-9日、「文月」はブカ島へ輸送作戦を実施するが、爆撃を受け至近弾により小破した。10月21-22日、「皐月、文月、夕凪」はダンピールへ輸送を実施した。10月24日には「望月、卯月」が輸送作戦中に空襲を受け、「望月」が沈没。また「時雨、白露、五月雨」によるイボキ輸送作戦中に「時雨」が至近弾により小破(輸送作戦中止)のため、10月24-25日に「皐月、文月」、10月29-30日に「卯月、文月」によるイボキ輸送を実施した。一連の輸送作戦中に「皐月」は座礁して最大発揮速力16ノットとなり、入渠修理が必要となった。10月下旬、連合軍はブーゲンビル島と周辺諸島に上陸を開始(ブーゲンビル島の戦い)、それに伴う『ろ号作戦』およびブーゲンビル島沖航空戦が始まる。 詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 10月31日14時30分、第五戦隊司令官大森仙太郎少将は、重巡洋艦2隻(妙高、羽黒)、軽巡「川内」、駆逐艦「文月、水無月、時雨、五月雨」を率いてラバウルを出撃、モノ島方面に進出するが米艦隊を発見できず、ラバウルへ引き返した。11月1日、米軍がブーゲンビル島タロキナに上陸したことが判明し、第八方面軍と南東方面艦隊はタロキナへの逆上陸輸送作戦を緊急立案する。連合襲撃部隊本隊(総指揮官兼五戦隊司令官大森少将:妙高、羽黒)、第一警戒隊(三水戦司令官伊集院少将:川内、時雨、五月雨、白露)、第二警戒隊(第十戦隊司令官大杉守一少将:阿賀野、長波、初風、若月)、輸送隊(第11駆逐隊司令山代勝守大佐:天霧、夕凪、文月、卯月、水無月《単艦ブカ島輸送》)という戦力が揃う。輸送隊は15時30分にラバウルを出撃したが、上陸に使用する小発動艇の搭載に手取り、連合襲撃部隊本隊との合流は予定より遅れた。このため逆上陸成功の見込みがなくなったため、大森司令官は輸送隊(水無月を除く)のラバウル帰投を命じた(2日0440ラバウル着)。11月1日深夜-2日日付変更後、日本軍連合襲撃部隊はアーロン・S・メリル少将率いる巡洋艦4隻・駆逐艦8隻と交戦。第三水雷戦隊旗艦「川内」と駆逐艦「初風」を喪失し、米軍輸送船団撃破にも失敗して敗北した。 日本軍はなおもタロキナへの逆上陸を諦めておらず、第十一航空艦隊、挺身輸送隊(第十戦隊司令官:若月《旗艦》、風雲、天霧、文月、卯月、夕凪)、護衛艦隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将:愛宕、高雄、摩耶、鳥海、能代等)による挺身上陸作戦を立案した。11月5日、米軍機動部隊はラバウルに到着したばかりの栗田艦隊に全力攻撃(戦闘機52、艦爆22、艦攻23)を実施、「愛宕、高雄、摩耶、最上、筑摩、能代、阿賀野、藤波、若月」に大小の損害を与えて作戦続行不能とした(ラバウル空襲)。輸送隊は空襲警報発令と共に湾外に脱出して被害を受けず、「風雲、文月」のみ一旦出撃したが作戦中止の下令があってラバウルへ戻った。栗田中将の重巡洋艦部隊をトラック泊地へ送り返したのち、南東方面艦隊は第二水雷戦隊・第三水雷戦隊・第十戦隊による挺身輸送部隊を編制した。第一支援隊(阿賀野、若月、風雲、浦風)、第二支援隊(能代、早波、藤波、時雨)、挺身輸送隊(警戒隊《大波、巻波、長波》、挺身輸送隊《天霧、文月、卯月、夕凪》)、ブカ島輸送隊(夕張《11月3日ラバウル着》、水無月)という配置が決まる。11月6日の出撃時、「藤波」は応急修理が間に合わず出撃不能、「時雨」は舵故障修理のためブカ島輸送隊(夕張、水無月、時雨)にまわされ、警戒隊「長波」は第二支援隊として出撃した。7日0000以降輸送隊はタロキナに到着して兵員を揚陸したが、米艦隊との戦闘は起きず、また揚陸した部隊も特に戦果はなかった。11月8日、第三水雷戦隊旗艦は「五月雨」から「天霧」を経て軽巡「夕張」に変更された。 11月11日、ラバウルは再び米軍機動部隊艦載機の空襲を受ける。「涼波」が沈没、「長波」が大破航行不能、「阿賀野」が被雷により舵故障、「浦月、若月」が若干の損傷を受けた。これにより「阿賀野、能代、浦風、若月」等の第十戦隊、第二水雷戦隊各艦がトラック泊地へ後退、南東方面艦隊の襲撃部隊は「夕張、天霧、文月、水無月、卯月、夕凪、大波、長波《航行不能》、巻波、秋風、夕霧」となった。11月24日、ブカ島輸送に向かった「大波、巻波、天霧、夕霧、卯月」はアーレイ・バーク大佐の米軍駆逐艦5隻に襲撃されて「大波、巻波、夕霧」が沈没し、第31駆逐隊司令香川清登大佐や吉川潔大波艦長が戦死した(セント・ジョージ岬沖海戦)。「天霧、卯月」のみラバウルへ生還、第三水雷戦隊は貴重な駆逐艦3隻を喪失した。連合軍はタロキナに新たな飛行場を整備、日本軍航空隊を圧倒した。制海権・制空権ともに米軍が掌握して日本軍のラバウル方面防衛線は完全に崩壊したが、それでも第三水雷戦隊や潜水艦による輸送作戦は続けられた。
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