昭和十八年前半の行動
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「川内 (軽巡洋艦)」の記事における「昭和十八年前半の行動」の解説
1943年(昭和18年)1月20日、第三水雷戦隊司令部および2隻(川内、白雪)は南東方面部隊に編入された。これは南東方面部隊指揮官草鹿任一第十一航空艦隊司令長官の希望によるもので、ガ島増援輸送で尽力した三水戦司令官橋本信太郎少将にガ島撤退作戦でも活躍してもらうための措置だった。1月24日、川内はラバウルへ進出。26日、橋本少将は第十戦隊司令官小柳冨次少将から増援部隊指揮官の職務を引き継ぐ。橋本司令官は旗艦を白雪に変更してショートランド泊地へ進出、川内はニューアイルランド島カビエンに回航された。同地では外南洋部隊支援隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官)の重巡2隻(熊野、鳥海)が待機しており、到着と共に西村司令官の指揮下に入った。川内搭載水上機はR方面航空隊に派遣。以後、川内はラバウルやショートランド泊地に停泊してケ号作戦(ガダルカナル島撤退作戦)の支援にあたった。 2月中旬、第三水雷戦隊司令官は橋本信太郎少将から木村昌福少将に交替した。橋本少将は海軍水雷学校長に赴任した。木村少将は白雪に乗艦してカビエンに移動し、23日に将旗を川内に掲げた。戦史叢書では2月24日にラバウルで橋本と交替としている。ラエ方面陸軍輸送船団護衛任務(第八十一号作戦)のため、木村少将は26日に旗艦を川内より白雪に変更、ラバウルへ向かった。外南洋部隊の主要艦艇は、指揮官三川軍一第八艦隊司令長官(旗艦:重巡洋艦青葉)の指揮下、増援部隊指揮官木村昌福第三水雷戦隊司令官指揮下の増援部隊(川内、朝潮、荒潮、白雪、初雪、皐月、水無月、文月、長月、雪風、時津風、朝雲、峯雲、浦波、敷波、村雨、五月雨)という編成である。だが3月2日-3日のビスマルク海海戦で増援部隊は駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)を喪失、白雪の沈没時に木村少将は負傷してしまった。3月6日附で橋本少将は退任、江戸兵太郎少将が三水戦司令官に任命される。3月23日、新たな三水戦司令官として秋山輝男少将が着任した。3月25日、第三水雷戦隊に第8駆逐隊が編入されるが、既に朝潮型3隻(朝潮、荒潮、大潮)を喪失して満潮1隻(大破修理中)となっており、同駆逐隊は4月1日附で解隊されている。 4月1日の戦時編制改編により第三水雷戦隊(川内、第11駆逐隊《初雪、天霧、夕霧》、第22駆逐隊《文月、皐月、長月、水無月》、第30駆逐隊《三日月、望月、卯月》)は第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)に配属された。第30駆逐隊は卯月型3隻で再編成されたばかりである。また同日時点で本艦は増援部隊(川内、五月雨、朝雲、第10駆逐隊《秋雲、夕雲、風雲》、雪風、第22駆逐隊《皐月、水無月、長月》、天霧)の旗艦だった。 連合艦隊と南東方面艦隊(第十一航空艦隊)が『い号作戦』を準備中の4月3日午前3時、青葉がカビエンで空襲を受け被弾した。魚雷誘爆により大破、擱座した。川内による青葉曳航の試みは浸水により失敗。工作艦による応急修理ののち、4月21日の川内による青葉の曳航は成功、25日にトラック泊地へ到着した。なお軽巡長良がカビエンで被弾・大火災を起こし、これを川内が救援したという川内水雷長の回想があるが、当時の長良は第四水雷戦隊旗艦としてトラック泊地を拠点に行動しており、カビエンで被弾・大破した記録はない。本艦は5月に佐世保へ帰投。三水戦旗艦は、夕張・天霧・長月・新月等が引き継いだ。同地では第24駆逐隊(涼風、江風)等の修理整備や、第134号艦(阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧)の建造をおこなっており、川内の修理もその中で行われた。佐世保での改装で5番砲塔(14cm単装砲)は撤去され、3連装25mm高角機銃2基を装備。さらに21型電探を搭載した。改装は6月25日に終わり、トラック泊地へ出動。7月5日に到着、同日中にラバウルへ向かい、7月8日に到着した。
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