い号作戦
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い号作戦(いごうさくせん)とは[1]、日本海軍が1943年(昭和18年)4月7日から15日にかけて南東方面艦隊(第十一航空艦隊、基地航空部隊)と第三艦隊(機動部隊)所属の艦載機により、ガダルカナル島やニューギニア島南東部のポートモレスビー、オロ湾、ミルン湾に対して空襲を行った作戦である[2]。4月7日に実施された空襲は、大本営発表によってフロリダ沖海戦と呼称された[3]。作戦名はいろは順の最初の文字にあやかって付けられた[4]。
注釈
- ^ 資料によって差異があるが、おおむね50機から60機程度。
- ^ 白露型駆逐艦村雨(第2駆逐隊司令)、朝潮型駆逐艦峯雲(第9駆逐隊)。
- ^ カビエンにいた駆逐艦初月が青葉を掩護した[38]。
- ^ 第22駆逐隊(文月、長月、皐月、水無月)でフィンシュハーフェンにむけて陸兵や物資を輸送中、夜間爆撃を受けてカビエンに退避していた[39]。文月が損傷したあと、ラバウルを経由して、4月8日ツルブに揚陸した[39]。
- ^ 昭和18年度帝国海軍戦時編制案は、機動部隊を2隊編成するという案であり、具体的には第二航空戦隊の第二艦隊への編入が提案されていた[47]。
- ^ この口述書は、山本五十六戦死後の4月28日「山本聯合艦隊司令長官作戦指導ノ為『ラボール』進出及『ショートランド』方面実視ニ至ル経緯竝ニ所見」として海軍次官に報告されたものである[57]。
- ^ 二航戦の空母飛鷹は南太平洋海戦に機関故障を起こして内地修理を余儀なくされ、3月下旬トラック泊地に再進出した[59]。
- ^ 瑞鳳隊の零戦1機が機械故障でカビエンに着陸している[62]。
- ^ 第三艦隊司令長官は小沢治三郎中将、参謀長山田定義少将、首席参謀高田利種大佐など[67]。
- ^ 第三艦隊司令長官の直率部隊。翔鶴は南太平洋海戦で大破し、内地で修理中だった[68]。瑞鶴と瑞鳳はトラック泊地で待機[61]。小沢長官や司令部は一式陸攻3機に分乗してトラック泊地からラバウルへ移動する[61]。
- ^ 二航戦司令官は角田覚治少将、首席参謀山岡末子大佐、航空参謀奥宮正武少佐など[69]。
- ^ 第十一航空艦隊は草鹿任一中将、参謀長中原義正少将、首席参謀三和義勇大佐、作戦参謀大前敏一中佐など[67]。十一航艦司令長官(司令部)が、南東方面艦隊司令長官(司令部)を兼務する。
- ^ 二十一航戦司令官は市丸利之助少将である[67]。
- ^ 二十六航戦司令官は上坂利之介少将である[67]。
- ^ この内、艦攻隊はカビエンにて訓練、対潜哨戒に任じ、直接攻撃には参加していない。また基地航空部隊の機数は常用定数であり、作戦開始時にはほぼ定数を満たしていた[70]。
- ^ 4月6日、二航戦司令部は一式陸攻に乗り、攻撃隊を率いてラバウルからバラレにむけて出発したが、悪天候のため引き返した[77]。4月7日早朝、ふたたび一式陸攻と攻撃隊を率いてラバウルを離陸[78]、バラレに移動した[79]。
- ^ バラレ発進時[82]、艦爆1機が事故で墜落した[78]。
- ^ その後、豊田中尉は「大谷中尉」の偽名を名乗り、ハワイの収容所でリーダー役を務めた後、昭和19年4月頃ウィスコンシン州マッコイ収容所に移送され、そこの娯楽室で時代小説を書いて周囲を楽しませたりして、さらに昭和20年6月24日、テキサス州ケネディ収容所に移りそこで終戦を迎えた[85]。
- ^ 戦史などではこのパイリーを「コルベット艦」と表記するケースもあるが、「HMAS Pirie」はオーストラリア海軍の正式な艦種区分では「Minesweepers」(掃海艇)である“HMAS Pirie (I)”. Sea Power Centre Australia. 2012年5月21日閲覧。。
- ^ ラバウルでは海兵第37期のクラス会[105](特別参加の山本長官、草鹿〈南東方面艦隊長官〉、小沢〈第三艦隊長官〉、鮫島具重〈第八艦隊司令長官〉、武田哲郎大佐、柳川教茂大佐)[106]。
- ^ 同船の最期についてはオーストラリア公刊戦史などに座礁の記録もあるが Cargo for the Jungle では座礁の後沈没とある。
- ^ 小沢中将は護衛の零戦を増やすことを提案したが、連合艦隊側が断った[126]。
- ^ 上記の消耗度と一致していないが、これは基地航空隊である五八二空所属機が含まれていないため。
- ^ 一航戦(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)がトラックに再進出するのは[144]、7月15日になった[145]。内地に戻った二航戦の飛鷹はトラックにむけて横須賀を出港した直後の6月10日、アメリカ潜水艦トリガー (USS Trigger, SS-237) の雷撃で大破[146]、二航戦は軽空母龍鳳を旗艦としてトラックに進出した[147][148]。
出典
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い号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:10 UTC 版)
詳細は「い号作戦」を参照 3月中旬、ソロモンおよび東部ニューギニアの敵船団、航空兵力を撃破しその反攻企図を妨げること、同地域の急迫する補給輸送を促進し、戦力の充実を図り部隊の強化を実現することを目的として、連合艦隊は4月7日ソロモン、ニューギニア方面に対する海軍航空兵力による「い号作戦」を開始、日本海軍は航空機のみの損失であったのに対し、アメリカ海軍は駆逐艦、コルベット艦、油槽船、商船、航空機25を喪失するなどアメリカ海軍の一方的な大敗となり、満足すべき結果を得て16日に終了した。 なおい号作戦は連合艦隊が独自に立案、実行したものであり、また第三艦隊作戦参謀・長井純隆によれば、第三艦隊母艦機を南東方面に使うことについて連合艦隊とそれに反対する第三艦隊司令部幕僚との間で相当の論争があったが、司令部上層に及んだ論議は聞かないので「おそらく山本長官自ら発案し、小沢第三艦隊司令長官に直接了解を得られたものと思う」という。 い号作戦の間、山本は、トラック島の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、い号作戦を直接指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。この前線指揮に関して、山本は、ガダルカナル島攻略をハワイで指揮するアメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツを引き合いに出し、後方の戦艦「武蔵」で指揮をとることを望んだが、連合艦隊参謀長・宇垣纏に説得された。高松宮宣仁親王や作家・司馬遼太郎は、山本は決死の覚悟で前線に赴いたのではないかという見解を示している。また、第三艦隊司令官・小沢治三郎中将と南東方面艦隊司令官・草鹿任一中将の統一指揮問題や、陸軍との面子や主導権争いが絡んでいたという指摘もある。 ラバウルに到着すると山本到着の噂はたちまち広がり、甥の高野五郎(陸軍軍医大佐、昭和19年9月1日調で第14兵站警備隊衛生隊長)は海軍司令部を訪問して山本と面会した。4月13日の巡視計画電報に対して第十一航空戦隊司令官・城島高次は「前線に、長官の行動を、長文でこんなに詳しく打つ奴があるもんか」と憤慨したという。 この時、山本は重用していた首席参謀の黒島亀人大佐の交代を考えており、「黒島を他の者に代えようと思う。誰が良いと思うか」と小沢治三郎と草鹿任一に相談していた。小沢は宮嵜俊男大佐を推薦したが、黒島への未練はあったようで、山本はあまり乗り気ではなかったという。
※この「い号作戦」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
「い号作戦」を含む「山本五十六」の記事については、「山本五十六」の概要を参照ください。
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