い百圓券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
1944年(昭和19年)3月18日の大蔵省告示第107号「日本銀行券百圓券ノ樣式略圖」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 百圓(100円) 表面 聖徳太子と法隆寺夢殿 裏面 法隆寺西院伽藍全景 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長 銘板 大日本帝國印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1 - 3桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦93mm、横163mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1944年(昭和19年)1月17日 - 1946年(昭和21年)10月17日 記号(組番号)範囲 1 - 299(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 205,038,000枚 発行開始日 1944年(昭和19年)3月20日 通用停止日 1946年(昭和21年)3月2日(証紙貼付券に限り1946年(昭和21年)10月31日) 発行終了 失効券 事実上有名無実化していた金本位制が1942年(昭和17年)5月の日本銀行法施行により正式に廃止され、管理通貨制度に移行したことに伴い兌換文言等が表記された兌換券が名実ともに実態にそぐわないものとなったことから、不換紙幣の「日本銀行券」として発行された。時代は第二次世界大戦に突入し、材料や資機材などに至るまであらゆるものが戦争に駆り出された結果、紙幣もコスト削減や製造効率向上を目的に品質を落とさざるを得なくなり仕様が簡素化されている。 通称は「2次100円」である。表面のデザインは兌換券である乙号券の流用だが、聖徳太子の表情にわずかな違いがあり、題号の「日本銀行券」への変更、兌換文言の削除、銘板の記載変更が行われている。また地模様については刷色が変更の上、○囲みの「百」の文字の連続模様から直線模様に簡素化されているが、その他の法隆寺や正倉院御物に関連する文様は存置されている。 裏面については印刷方式を簡易な凸版印刷に変更したため別デザインに変更されており、乙号券と同じく金堂や五重塔を中心とした法隆寺の西院伽藍の俯瞰図が描かれているものの、視点が少し変更されている。裏面上方には「橘夫人念持仏厨子」の下部の蓮花模様が、下方には瑞雲があしらわれており、その左右には下部に法隆寺金堂の天蓋に設置されている彫刻の「木彫り鳳凰」と中ほどに「天平瓦」の模様を配置している。また地模様として天平時代の唐草模様が印刷されている。またアラビア数字による額面表記は存在するものの、これまで裏面に印刷されていた英語表記は削除され、英語表記が全くない券面となっている。同時期に改刷されたい拾圓券やろ五圓券と同じく簡素化された券面ではあるものの、改刷前の兌換券と同じテーマの法隆寺に関連する図柄が採用されており、簡素化の度合いは他券種ほど大きくない。 記番号は記号(組番号)と通し番号から成り、このうち通し番号については基本的に900000までであったが、補刷券と呼ばれる不良券との差し替え用に900001以降の通し番号が印刷されたものが存在する。 透かしは乙号券と同じ「天平時代の裂の文様」(小幡赤地錦模様ならびに鳳凰と高山植物の組合せ)であるが、乙号券と比べるとすき入れの品質が低下しており透かし模様が薄いものが見受けられる。 使用色数は、表面5色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章1色)となっている。 新円切替のため1946年(昭和21年)3月2日限りで通用停止となった。新円切替の際、乙号券~ろ号券に証紙を貼付し、臨時に新券の代わりとした「証紙貼付券」が発行された。この証紙貼付券は十分な量の新円の紙幣(A号券)が供給された1946年(昭和21年)10月末限りで失効した。
※この「い百圓券」の解説は、「百円紙幣」の解説の一部です。
「い百圓券」を含む「百円紙幣」の記事については、「百円紙幣」の概要を参照ください。
- い百圓券のページへのリンク