B号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/23 14:34 UTC 版)
B号券(ビーごうけん)は、日本銀行券(紙幣、お札)の種類の一つ。B券とも呼ばれる。券種は、B千円券・B五百円券・B百円券・B五十円券の4種である。A号券の後継として発行された。B千円券とB五百円券については後継にC号券が、B百円券・B五十円券については百円硬貨・五十円硬貨が後継として発行された。B号券は全券種発行が停止されているが、発行された全券種が有効である。
このシリーズの紙幣から、記番号の形式が「A000001A」「AA000001A」のように、左側にアルファベット1桁または2桁、中央に数字6桁、右側にアルファベット1桁という構成に改められた。
B号券の一覧
券種 | 表面 | 裏面 | 発行開始日 | 支払停止日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
B千円券 | 聖徳太子 | 法隆寺夢殿 | 1950年(昭和25年)1月7日[1] | 1965年(昭和40年)1月4日[2][注 1] | |
B五百円券 | 岩倉具視 | 富士山 | 1951年(昭和26年)4月2日[3] | 1971年(昭和46年)1月4日[4][注 2] | |
B百円券 | 板垣退助 | 国会議事堂 | 1953年(昭和28年)12月1日[5] | 1974年(昭和49年)8月1日[6][注 3] | |
B五十円券 | 高橋是清 | 日本銀行本店本館 | 1951年(昭和26年)年12月1日[7] | 1958年(昭和33年)10月1日[8][注 4] | 発行枚数が少ないため、記番号の頭のアルファベットが1桁のものしか存在しない。 |
未発行券種
券種 | 表面 | 裏面 | 発行企画・製造等時期 | 備考 |
---|---|---|---|---|
B一万円券[9] | 聖徳太子、法隆寺西院伽藍全景 | 鳳凰 | 1953年(昭和28年)発行企画 | インフレ助長の懸念のため発行中止。 聖徳太子の図案は笏なし。 |
B十円券[10] | 大久保利通 | 不明 | 1946年(昭和21年)発行企画 | 十円青銅貨発行のため発行中止。 |
B五円券[10] | 福沢諭吉 | 不明 | 1946年(昭和21年)発行企画 | 五円黄銅貨発行のため発行中止。 |
B一円券[10] | 二宮尊徳 | 不明 | 1946年(昭和21年)発行企画 | 一円アルミ貨発行のため発行中止。 |
脚注
注釈
出典
- ^ 1949年(昭和24年)12月28日大蔵省告示第1048号「昭和二十五年一月七日から発行する日本銀行券千円の様式を定める件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 千円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 1951年(昭和26年)3月27日大蔵省告示第404号「昭和二十六年四月二日から発行する日本銀行券五百円の樣式を定める件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 五百円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 1953年(昭和28年)11月27日大蔵省告示第2244号「昭和二十八年十二月一日から発行する日本銀行券百円の様式を定める件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 百円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 1951年(昭和26年)11月24日大蔵省告示第1752号「昭和二十六年十二月一日から発行する日本銀行券五拾円の様式を定める件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 五十円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ “一万円札年末にお目見え”. 朝日新聞 朝刊 (東京): pp. 7. (1953年9月3日)
- ^ a b c 日本銀行調査局『図録日本の貨幣 9 管理通貨制度下の貨幣』東洋経済新報社、1975年6月、210-214頁。
B号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 08:17 UTC 版)
1951年(昭和26年)3月27日の大蔵省告示第404号「昭和二十六年四月二日から発行する日本銀行券五百円の樣式を定める件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 五百円(500円) 表面 岩倉具視 裏面 富士山(雁ヶ腹摺山から望む富士山) 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長 銘板 日本政府印刷庁製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 記号:英字1 - 2文字+通し番号:数字6桁+記号:英字1文字 寸法 縦76mm、横156mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1951年(昭和26年)1月16日 - 1969年(昭和44年)6月27日 製造枚数 2,219,000,000枚 発行開始日 1951年(昭和26年)4月2日 支払停止日 1971年(昭和46年)1月4日 有効券 1946年(昭和21年)2月に終戦直後のインフレーション抑制を目的とした新円切替が実施され、切替用の新紙幣としてA号券が新たに発行されたものの、新円切替をもってしてもインフレーションの進行は抑えきれず当時の最高額面券であったA百円券の発行量が著しく増大する結果となった。また当時の切迫した状況から極めて短期間のうちに検討から製造まで行わざるを得ず、不十分な出来栄えで粗末な作りとなっていたA号券の偽造が横行したこともあり、1950年(昭和25年)には最初のB号券としてB千円券が発行された。しかし依然としてA百円券が発行枚数の60%を占めている状況で高額券の需要が多いため、翌1951年(昭和26年)には千円紙幣と百円紙幣の間を埋めるべくB五百円券が発行された。 表面右側には岩倉具視の肖像が描かれているが、これは明治中期にエドアルド・キヨッソーネにより作成された、勲章を佩用し大礼服を着た岩倉具視の肖像画をモデルにしたもので、人物の向きを変えて服装を蝶ネクタイの背広に差し替えたものとなっている。中央上下には法隆寺が所蔵する玉虫厨子の透金具のレリーフ模様を描き、左右には「500」および「五百」の文字と日本銀行行章のマイクロ文字を敷き詰めている。表面中央の地模様には正倉院宝物の「黒柿蘇芳染金銀絵如意箱」の模様をあしらっている。裏面には中央から右側にかけて富士山が描かれているが、これは写真家の名取久作が山梨県大月市の雁ヶ腹摺山山頂から撮影した写真を原画としたものである。また、裏面左側の額面金額「500」が表示された円形の輪郭の周囲には蓮花模様を描き、更にその外側を中尊寺金色堂の天蓋の「藤原模様」が取り巻く構成となっている。 透かしは野菊の図柄と「500」の数字であるが、他のB号券同様印刷と重なっていることもあり確認しにくい。当初の紙幣用紙は第二次世界大戦以前と同じく漂白した三椏のみを原料としたものであったが、のちに三椏の需給が逼迫したことからマニラ麻や木綿、尿素樹脂が混合されるようになった。この影響により発行途中で紙質が変化しており前期はクリーム色紙、後期は白色紙である。 使用色数は、表面6色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様3色、印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章1色)となっている。券種の識別性を高めるため、従来の日本銀行券では旧券(大黒札)と乙五圓券を除き主模様は黒色で印刷されていたところ、凹版印刷による主模様を含め全体的に青色を基調とした券面となっている。
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B号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:50 UTC 版)
1951年(昭和26年)11月24日の大蔵省告示第1752号「昭和二十六年十二月一日から発行する日本銀行券五拾円の様式を定める件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 五拾円(50円) 表面 高橋是清 裏面 日本銀行本店本館 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長 銘板 日本政府印刷庁製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 記号:英字1文字+通し番号:数字6桁+記号:英字1文字 寸法 縦68mm、横144mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1951年(昭和26年)10月5日 - 1955年(昭和30年)3月30日 製造枚数 360,600,000枚 発行開始日 1951年(昭和26年)12月1日 支払停止日 1958年(昭和33年)10月1日 発行終了 有効券 五十円紙幣が日本銀行券として発行されるのはこれが最初であり、政府紙幣を含めても明治通宝五十円券以来である。 朝鮮戦争の影響などを受け物価水準が高騰し市中取引での十円紙幣の需要が増加したものの、当時の法定通貨(紙幣・硬貨)の構成は額面金額10円の次が100円となっていたことからA十円券の流通枚数が増加し消費者や金融機関などの負担となったため、これを軽減するために1951年(昭和26年)に百円紙幣と十円紙幣の中間券種として発行された。元々の計画ではB五百円券の発行開始後百円紙幣の改刷に着手する予定であったが、前述の事情やA百円券の在庫に余裕があったことなどから、先に五十円紙幣が発行されることとなった。 表面右側には高橋是清の写真を基にした肖像が描かれ、その下には月桂樹があしらわれている。また表面左右には「五拾」の文字のマイクロ文字を敷き詰めているほか、上下の輪郭には「50」の数字が入った割模様と、地模様として「50」の数字のレリーフ模様および中央から左右に広がる唐草模様を描いている。裏面左側には肖像の高橋是清に因んで東京都中央区にある日本銀行本店本館の建物が描かれており、右側の地模様には「50」の数字が連続印刷されている。 記番号はB号券の他券種・C号券・D号券・E号券と同じくアルファベット+数字6桁+アルファベット1桁の形式の組み合わせであるが、このB号五十円紙幣の場合は発行枚数が少ないため頭のアルファベットが1桁のものしか存在しない。 透かしは「50」の数字と日本銀行行章の図柄の不定位置の「ちらし透かし」であるが、他のB号券同様印刷と重なっていることもあり確認しにくい。紙幣用紙は木材パルプに少量の三椏およびマニラ麻を混合したものとなっている。 使用色数は、表面6色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様3色、印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章1色)となっている。B号券の中では唯一表面のみが凹版印刷によるものであり、裏面は凸版印刷である。 1951年(昭和26年)末の発行開始後、1955年(昭和30年)9月には五十円硬貨(無孔ニッケル貨)が登場したことで紙幣の需要が急減し、同年中には発行開始から僅か4年で五十円紙幣の製造が終了した。1958年(昭和33年)10月には日本銀行からの支払も終了したため発行期間は僅か7年弱であり、流通した枚数も少ないため現在は額面価値に対して古銭としての価値が高くなっており、数千円の値が付くことがある。
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B号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 15:24 UTC 版)
1949年(昭和24年)12月28日の大蔵省告示第1048号「昭和二十五年一月七日から発行する日本銀行券千円の様式を定める件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 千円(1,000円) 表面 聖徳太子 裏面 法隆寺夢殿 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長 銘板 日本政府印刷庁製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 記号:英字1 - 2文字+通し番号:数字6桁+記号:英字1文字 寸法 縦76mm、横164mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間:1949年(昭和24年)11月25日 - 1963年(昭和38年)8月9日 製造枚数 2,825,000,000枚 発行開始日 1950年(昭和25年)1月7日 支払停止日 1965年(昭和40年)1月4日 有効券 1946年(昭和21年)2月に終戦直後のインフレーション抑制を目的とした新円切替が実施され、切替用の新紙幣としてA号券が新たに発行されたが千円券(A千円券)の発行は計画されていたものの結果的に見送られた。しかし新円切替をもってしてもインフレーションの進行は抑えきれず、当時の最高額面券であったA百円券の発行量が著しく増大して1949年(昭和24年)頃には発行枚数の95%以上を占めるほどになったため、金融機関の処理や高額の現金決済に支障を来たすようになり更に高額面の紙幣が必要とされるようになった。当時の切迫した状況から極めて短期間のうちに検討から製造まで行わざるを得ず、不十分な出来栄えで粗末な作りとなっていたA号券の偽造が横行したこともあり、B千円券は他のB号券に先駆けて1950年(昭和25年)に発行された。 表面右側には乙百圓券の検討時に作成された原画を基にして新たに彫刻された聖徳太子の肖像が描かれ、肖像の下には甲百圓券を最後に途絶えていた肖像の人名表記が復活している。肖像を囲む円形の枠には法隆寺の古瓦模様、中央上下には宝相華の唐草模様、地模様には法隆寺が所蔵する玉虫厨子の「透金具の天平模様」があしらわれている。裏面左側には肖像の聖徳太子に因んで奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺夢殿を、右端には正倉院御物の「四騎獅子狩文錦」の織物の図柄の一部分を描いている。かつての乙百圓券やい百圓券ほどではないものの、肖像の聖徳太子にゆかりのある法隆寺や正倉院に関連する図柄が多く採用されている。なおこのデザインは、当初五百円券として準備が進められていたものを転用したものである。 記番号はアルファベット1桁または2桁+数字6桁+アルファベット1桁の形式、すなわち「A123456B」や「AB123456C」のような形式が採用された初の日本の紙幣であり、それがそのままC号券・D号券・E号券でも用いられている。 透かしは「日銀」の文字と桜花の図柄であるが、他のB号券同様印刷と重なっていることもあり確認しにくい。当初の紙幣用紙は第二次世界大戦以前と同じく三椏のみを原料としたものであったが、のちに三椏の需給が逼迫したことからマニラ麻や木綿、尿素樹脂が混合されるようになった。この影響により発行途中で紙質が変化しており前期はクリーム色紙、後期は白色紙である。なお製造効率向上のためにA号券までに発行されていた日本銀行券の高額券とは異なって券面の寸法が横長となっており、以降もこれに近いスタイルが受け継がれている。 使用色数は、表面5色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章1色)となっている。第二次世界大戦後初の表裏両面が凹版印刷された本格的な銀行券である。 なおい号券からA号券までは、戦時中・終戦直後ということもあり、印刷局のみならず一部を民間の印刷会社に委託して製造していたが、様々な問題があったこともありB号券以降は再び全量が印刷局で製造されている。
※この「B号券」の解説は、「千円紙幣」の解説の一部です。
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