A百圓券
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1946年(昭和21年)2月17日の大蔵省告示第23号「日本銀行券百圓券及拾圓券樣式ノ件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 百圓(100円) 表面 聖徳太子と法隆寺夢殿、新円標識(瑞雲) 裏面 法隆寺西院伽藍全景 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉発券局長 銘板 大日本帝國印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 4桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦93mm、横162mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1946年(昭和21年)2月26日 - 1949年(昭和24年)12月26日 記号(組番号)範囲 1 - 7352(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 6,493,632,000枚 発行開始日 1946年(昭和21年)3月1日(告示上:同年2月25日) 支払停止日 1956年(昭和31年)6月5日 発行終了 有効券 終戦直後の猛烈なインフレーションの抑制策として、政府により新円切替が極秘裏に検討されていた。これは発表からごく短期間のうちに旧紙幣を全て無効化して金融機関に強制預金させたうえで預金封鎖し、代わりに発行高を制限した新紙幣(A号券)を発行して最低限度の生活費だけを引き出せるようにするものであった。これを実施するには従前の紙幣と明確に識別可能な新紙幣を急遽準備する必要が生じるため、紙幣の図案検討としては異例の指名型の公募が行われ、他のA号券(10円・5円・1円券)では粗末とはいえ公募を基にした新デザインが決定されたが、A百円券に関しては下記の経緯からその例外となっている。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の承認が必要であった。当初の案は、インフレーションや闇取引助長の懸念から高額紙幣発行に対してGHQが反対したことにより不発行となった、凸版印刷株式会社によって提案された図案の1つである弥勒菩薩像の肖像を描いたA五百円券の図案を流用したものであり、弥勒菩薩像の肖像にクレームが付いたためこれを聖徳太子像に差し替えたものがA百円券の新デザインとしてGHQに申請が行われた。これは製造効率を優先したオフセット印刷を前提としたものであったが、GHQは高額券である百円紙幣にはオフセット印刷を認めず、偽造防止の観点から凹版印刷を使用すべきとして変更を指示したものの、当時の切迫した状況から準備に時間を要する凹版印刷の版面を新たに用意する時間的余裕がない状態であった。そのため表裏両面ともい号券の彩色のみを変更してそのまま流用し、識別のために表面中央下に赤色の新円標識(瑞雲と桜花)を加刷したものを発行することとなった。したがって刷色と新円標識を除いた図柄は表裏両面ともい号券と同一となっている。通称は「4次100円」である。 A号券のうち「発券局長」の印章が裏面に印刷されている唯一の紙幣であり、他のA号券の場合は、10円・5円・1円券では「総裁之印」「発券局長」の両方が表面に、10銭・5銭券では「発券局長」がなく「総裁之印」のみが表面に印刷されている。 当初は紙幣の製造についても発行元の日本銀行から民間印刷会社に直接発注するように調達方式を変更する構想を大蔵省は持っていたが、極めて厳格な管理が求められる紙幣製造業務の特殊性から望ましくないとのGHQの意向によりこちらは実行されなかった。結局のところ一部のい号券やろ号券などと同様に従来通り印刷局が一元的に紙幣製造の管理を行うこととなり、凸版印刷にて完成された版面を印刷局に引渡したうえで、印刷局とその委託を受けた大日本印刷や凸版印刷などの複数の民間印刷会社で分散して印刷されることとなった。 記番号については、通し番号が省略され記号(組番号)のみが印字されている他のA号券と異なり、このA百円券のみ1枚1枚固有の通し番号が付されている。組番号と通し番号の両方が印字されている他券種と異なり、組番号が括弧表記ではないため区別が付き難いが、他券種同様に紙幣の右上と左下が組番号、左上と右下が通し番号となっている。通し番号は基本的に900000までであったが、い号券と同様、不良券との差し替え用に900001以降の通し番号が印刷された補刷券が存在する。記号(組番号)の下2桁が製造工場を表しており、下表の通り12箇所の印刷所別に分類できる。このように多数の民間委託先でも印刷されたため、用紙や刷色に変化が多く品質が不均一となっている。 製造工場記号下2桁透かし大蔵省印刷局滝野川工場 12 桐(白透かし・不定位置) 大蔵省印刷局酒匂工場 22 大蔵省印刷局静岡工場 32 大蔵省印刷局彦根工場 42 天平時代の裂の文様(白黒透かし・定位置) 凸版印刷板橋工場 13 桐(白透かし・不定位置) 凸版印刷富士工場 23 凸版印刷大阪工場 33 大日本印刷榎町工場 44 共同印刷小石川工場 15 東京証券印刷王子工場 16 東京証券印刷小田原工場 26 帝国印刷芝工場 17 透かしは、印刷局彦根工場製造分(組番号(右上、左下番号)の下2桁が42)のみ乙百圓券・い百圓券と同様の「天平時代の裂の文様」(小幡赤地錦模様ならびに鳳凰と高山植物の組合せ)の定位置透かしであり、そのほかの工場製造分は「桐」の白透かしによる不定位置(ちらし)透かしである。印刷局彦根工場製造分のみ異なる透かしが用いられた理由は、A百円券の発行開始により製造発行中の全ての紙幣で白黒透かしが用いられなくなってしまうことから、将来に備えて白黒透かしの製造技術を維持することを目的としたものである。A号券のうち透かしが入っている唯一の紙幣となっている。 使用色数は、表面5色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章・新円標識1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章1色)となっている。凹版印刷が採用されているのは表面のみで、裏面の印刷方式は当初は凸版印刷であったが、新円切替をもってしてもインフレーションを食い止めることはできなかったため、百円紙幣の需要が増大し製造が追いつかない状況になったことから、1946年(昭和21年)後半以降から製造効率向上のため平版印刷に変更されている。 A百円券の製造終了は1949年度(昭和24年度)である。 新円切替後の紙幣なので現在も法的には有効だが、失効券である乙号券やい号券(これらの紙幣には赤色の新円標識がない)と図柄が類似しているため間違えないように注意する必要がある。
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