A号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/27 17:20 UTC 版)
A号券(エーごうけん)は、日本銀行券(紙幣、お札)の種類の一つ。A券とも呼ばれる。券種は、A百円券・A十円券・A五円券・A一円券・A十銭券・A五銭券の6種である。新円切替後初の日本銀行券のシリーズで、A百円券・A十円券・A五円券はろ号券、A一円券・A十銭券・A五銭券はい号券の後継として発行された。A百円券については後継にB号券が、A十円券・A五円券・A一円券については十円硬貨・五円硬貨・一円硬貨が後継として発行された。A号券は全券種発行が停止されているが、額面金額1円以上の4券種が有効である。
A号券の一覧
券種 | 表面 | 裏面 | 発行開始日 | 支払停止日・失効日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
A百円券 | ![]() 聖徳太子と法隆寺夢殿 |
![]() 西院伽藍全景 |
1946年(昭和21年)3月1日[1][注 1] | 1956年(昭和31年)6月5日支払停止[3][注 2] | デザインはい百円券の流用・一部改変。 い百円券と異なる点は、表面の中央「百圓」の文字の下に赤色標識があり、裏面模様が青色(い百円券は赤色)であること。 い百円券は現在失効。 |
A十円券 | ![]() 国会議事堂と鳳凰 |
![]() 彩紋 |
1946年(昭和21年)3月1日[1][注 1] | 1955年(昭和30年)4月1日支払停止[4][注 3] | デザインは未発行のA千円券1次案の流用・一部改変。 |
A五円券 | ![]() 彩紋 |
![]() 彩紋 |
1946年(昭和21年)3月8日[1][注 4] | 1955年(昭和30年)4月1日支払停止[6][注 5] | |
A一円券 | ![]() 二宮尊徳、鶏、麦・稲など |
![]() 彩紋 |
1946年(昭和21年)3月20日[7][注 6] | 1958年(昭和33年)10月1日支払停止[9][注 7] | |
A十銭券 | ![]() 鳩 |
![]() 国会議事堂 |
1947年(昭和22年)9月5日[10] | 小額通貨整理法により1953年(昭和28年)末限りで失効[11] | |
A五銭券 | ![]() 梅 |
![]() 彩紋 |
1948年(昭和23年)5月25日[12] | 小額通貨整理法により1953年(昭和28年)末限りで失効[11] |
未発行券種
券種 | 表面 | 裏面 | 発行企画・製造等時期 | 備考 |
---|---|---|---|---|
A千円券1次案[13] | ※![]() 伐折羅大将 |
※![]() 彩紋 |
1945年(昭和20年)発行企画 | (※画像は流用先のA十円券) 終戦直後のインフレ対策のため企画されたが、GHQからのインフレ助長の可能性の指摘と肖像へのクレームのため発行中止。 |
A千円券2次案[14] | ※![]() 日本武尊、建部神社本殿 |
※![]() 彩紋 |
1946年(昭和21年)2月 - 3月製造 | (※画像は流用元の甲千円券) デザインは甲千円券の流用・一部改変(刷色変更・新円標識加刷)。 インフレ助長の懸念と兌換表示の残存の不都合があったため発行中止。 |
A五百円券[13] | 弥勒菩薩 |
彩紋 |
1945年(昭和20年)発行企画 | 終戦直後のインフレ対策のため企画されたが、GHQからのインフレ助長の可能性の指摘と肖像へのクレームのため発行中止。 |
A二百円券 | ※![]() 藤原鎌足、談山神社拝殿 |
※![]() 談山神社十三重塔 |
1946年(昭和21年)頃発行企画 | (※画像は流用元の丁二百円券) デザインは丁二百円券の流用・一部改変(刷色変更・新円標識加刷)。 検討され見本券が試作されたが本格製造・発行に至らず。 |
A十円券新円標識版 | ※![]() 和気清麻呂 |
※![]() 護王神社本殿 |
1946年(昭和21年)頃発行企画 | (※画像は流用元のい十円券) デザインはい十円券の流用・一部改変(刷色変更・新円標識加刷)。 検討され見本券が試作されたが本格製造・発行に至らず。 |
※を付けた画像は、本来の画像がないため代わりに暫定的に流用元や流用先等の類似の紙幣の画像を用いているものである。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 日本銀行金融研究所『日本貨幣年表』日本銀行金融研究所、1994年、P.91頁。ISBN 9784930909381。
- ^ 1946年(昭和21年)2月17日大蔵省告示第23號「日本銀行券百圓券及拾圓券樣式ノ件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 百円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 十円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 1946年(昭和21年)3月5日大蔵省告示第97號「日本銀行券五圓券ノ樣式ノ件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 五円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 日本銀行金融研究所『日本貨幣年表』日本銀行金融研究所、1994年、P.92頁。ISBN 9784930909381。
- ^ 1946年(昭和21年)3月19日大蔵省告示第123號「日本銀行券壹圓券ノ樣式ノ件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 一円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 1947年(昭和22年)9月5日大蔵省告示第205號「日本銀行券拾銭券の樣式」
- ^ a b 1953年(昭和28年)7月15日法律第60号「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」
- ^ 1948年(昭和23年)5月25日大蔵省告示第157号「昭和二十三年五月二十五日から発行する日本銀行券五銭の樣式」
- ^ a b 植村峻『日本紙幣の肖像やデザインの謎』日本貨幣商協同組合、2019年1月、62-66頁。ISBN 978-4-93-081024-3。
- ^ 植村峻『日本紙幣の肖像やデザインの謎』日本貨幣商協同組合、2019年1月、165-166頁。ISBN 978-4-93-081024-3。
A号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/18 15:39 UTC 版)
1946年(昭和21年)2月17日の大蔵省告示第23号「日本銀行券百圓券及拾圓券樣式ノ件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 拾圓(10円) 表面 国会議事堂、鳳凰 裏面 彩紋 印章 〈表面〉総裁之印、発券局長 〈裏面〉なし 銘板 記載なし 記番号仕様記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)] 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 4桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし 寸法 縦76mm、横140mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1946年(昭和21年)2月14日 - 1954年(昭和29年)3月29日 記号(組番号)範囲 1 - 1977(1記号当たり5,000,000枚製造) 製造枚数 9,869,055,000枚 発行開始日 1946年(昭和21年)3月1日(告示上:同年2月25日) 支払停止日 1955年(昭和30年)4月1日 発行終了 有効券 終戦直後の猛烈なインフレーションの抑制策として、政府により新円切替が極秘裏に検討されていた。これは発表からごく短期間のうちに旧紙幣を全て無効化して金融機関に強制預金させたうえで預金封鎖し、代わりに発行高を制限した新紙幣(A号券)を発行して最低限度の生活費だけを引き出せるようにするものであった。これを実施するには従前の紙幣と明確に識別可能な新紙幣を急遽準備する必要が生じるため、印刷局の他に民間印刷会社4社に対して新紙幣のデザイン案の提案を求め、その中から「斬新なデザインのもの」を選ぶという選考方針のもとで新紙幣のデザイン案が決定された。紙幣の図案検討としては異例の指名型公募方式による選定であった。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の承認が必要であった。公募により採用された図案は、民間企業の凸版印刷株式会社によって提案された図案の1つであり、当初の案ではこの図案は伐折羅大将像の肖像を描いたA千円券の図案であった。インフレーションや闇取引助長の懸念から高額紙幣発行に対してGHQが反対したため、不発行となったA千円券のデザインを流用してA十円券の図案とすることで図案の申請が行われた。GHQによる図案の審査の結果、肖像が不適切であるとクレームが付き変更を指示されたため、伐折羅大将像を国会議事堂に差し替えてGHQの承認を得たうえで発行された。 券面を左右に二分した図柄が特徴的であり、表面左側には十字型の枠内に国会議事堂の中央塔部分を、右側には四角い輪郭枠の中に法隆寺の古鏡の鳳凰と胡蝶の図柄を描いたものであった。裏面には正倉院御物の古代裂から採った睡蓮と宝結びの模様を描いている。日本銀行券としては珍しく、券面上に日本銀行行章の図柄が含まれていないほか、円記号(「¥」)により額面金額が表記され、ローマ字表記による国名表示「NIPPON」の表記があるなど、他の券種とは一線を画した様式となっている。 しかしながら表面のデザイン全体が「米国」の漢字に見えることに加え、製造開始間際に十分な検討時間がない中で千円券を十円券の券面にするべく無理に修正した影響で、輪郭枠の「十」の連続模様が十字架の鎖のように見え、さらに千円券として検討されていた図柄を十円券の寸法に合わせて無理に縮小したために、右側左下の彩紋模様が圧縮されて進駐軍のMPのヘルメットの形状を連想させるなど、GHQの陰謀ではないかとの悪評が立ち国会でも問題となった。 異例の公募による図案決定と併せて、当初は紙幣の製造についても発行元の日本銀行から民間印刷会社に直接発注するように調達方式を変更する構想を大蔵省は持っていたが、極めて厳格な管理が求められる紙幣製造業務の特殊性から望ましくないとのGHQの意向によりこちらは実行されなかった。券面上から製造元を示す銘板の記載が省略されているが、これはこの調達方式変更の予定を見越したものである。結局のところ一部のい号券やろ号券などと同様に従来通り印刷局が一元的に紙幣製造の管理を行うこととなり、凸版印刷株式会社にて完成された版面を印刷局に引渡したうえで、印刷局とその委託を受けた大日本印刷や凸版印刷などの複数の民間印刷会社で分散して印刷されることとなった。 記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっている。記号の下2桁が製造工場を表しており、下表の通りA号券の中では最も多い13箇所の印刷所別に分類できる。このように多数の民間委託先でも印刷されたが、もともと紙幣として十分とは言い難い粗末な仕様であったことに加え、製造数量や秘密保持の管理が不十分で一部の委託先から製造中の半製品が外部流出するなどの問題が発生し、これらが偽造が多発する原因の一つとなったほか、用紙や刷色に変化が多く品質が不均一となっている。 製造工場記号下2桁大蔵省印刷局滝野川工場 12 大蔵省印刷局酒匂工場 22 大蔵省印刷局静岡工場 32 大蔵省印刷局彦根工場 42 凸版印刷板橋工場 13 凸版印刷富士工場 23 凸版印刷大阪工場 33 大日本印刷市ヶ谷工場 14 大日本印刷秋田工場 24 大日本印刷新発田工場 34 共同印刷小石川工場 15 東京証券印刷王子工場 16 東京証券印刷武生工場 36 他の十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない。なおA号券の紙幣用紙の抄造については緊急かつ大量に必要となることから、印刷局の工場だけでは賄いきれず一部は民間製紙会社においても抄造が行われている。いずれも発行された日本銀行券の中では初めてのことであり、これ以降もこのような事例は存在していない。 使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。印刷方式は、製造効率を優先したため当初は両面とも平版印刷であったが、透かしもなく印刷色数も最低限という余りにも簡素な仕様であることから精巧な偽造券が発生する可能性を考慮して2度にわたり変更が行われ、1度目の変更では表面が凸版印刷で裏面が平版印刷、2度目の変更では両面とも凸版印刷という変遷をたどっている。 A十円券の製造終了は、十円硬貨(十円青銅貨)が市中に出回り始めた1953年(昭和28年)であった。 日本の現在発行されていない旧紙幣の中では現存数が非常に多く、しばしば未使用の100枚帯封などが古銭市場やネットオークション等に現れるほどであり、古銭商による買取の場合、1枚での買取はほとんど期待できず、ある程度まとまった枚数で買い取ってもらう場合も、額面を若干超えた程度となるのが一般である。
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