A号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/26 16:11 UTC 版)
A号券(エーごうけん)。日本銀行券(紙幣、お札)の種類の一つ。A券とも呼ばれる。以下の6券種がある。A百円券・A十円券・A五円券はろ号券、A一円券・A十銭券・A五銭券はい号券の後継として発行された。新円切替後初の日本銀行券のシリーズである。A百円券については後継にB号券が、A十円券・A五円券・A一円券については十円硬貨・五円硬貨・一円硬貨が後継として発行された。A号券は全券種発行が停止されているが、額面金額1円以上の4券種が有効である。
- A百円券 - 図柄は聖徳太子と法隆寺夢殿・西院伽藍全景。1946年(昭和21年)3月1日発行開始[1][注 1]、1956年(昭和31年)6月5日に日本銀行からの支払停止[3][注 2]。
- A十円券 - 図柄は国会議事堂と鳳凰。1946年(昭和21年)3月1日発行開始[1][注 1]、1955年(昭和30年)4月1日に日本銀行からの支払停止[4][注 3]。
- A五円券 - 図柄は彩紋のみ。1946年(昭和21年)3月8日発行開始[1][注 4]、1955年(昭和30年)4月1日に日本銀行からの支払停止[6][注 5]。
- A一円券 - 図柄は二宮尊徳。1946年(昭和21年)3月20日発行開始[7][注 6]、1958年(昭和33年)10月1日に日本銀行からの支払停止[9][注 7]。
- A十銭券 - 図柄は鳩。1947年(昭和22年)9月5日発行開始[10]。1953年(昭和28年)末限りで小額通貨整理法により失効[11]。
- A五銭券 - 図柄は梅。1948年(昭和23年)5月25日発行開始[12]。1953年(昭和28年)末限りで小額通貨整理法により失効[11]。
- 未発行紙幣
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 日本銀行金融研究所 『日本貨幣年表』日本銀行金融研究所、1994年、P.91頁。ISBN 9784930909381。
- ^ 1946年(昭和21年)2月17日大蔵省告示第23號「日本銀行券百圓券及拾圓券樣式ノ件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 百円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 十円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 1946年(昭和21年)3月5日大蔵省告示第97號「日本銀行券五圓券ノ樣式ノ件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 五円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 日本銀行金融研究所 『日本貨幣年表』日本銀行金融研究所、1994年、P.92頁。ISBN 9784930909381。
- ^ 1946年(昭和21年)3月19日大蔵省告示第123號「日本銀行券壹圓券ノ樣式ノ件」
- ^ “現在発行されていないが有効な銀行券 一円券”. 日本銀行. 2021年6月19日閲覧。
- ^ 1947年(昭和22年)9月5日大蔵省告示第205號「日本銀行券拾銭券の樣式」
- ^ a b 1953年(昭和28年)7月15日法律第60号「小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」
- ^ 1948年(昭和23年)5月25日大蔵省告示第157号「昭和二十三年五月二十五日から発行する日本銀行券五銭の樣式」
- ^ a b 植村峻 『日本紙幣の肖像やデザインの謎』日本貨幣商協同組合、2019年1月、62-66頁。ISBN 978-4-93-081024-3。
- ^ 植村峻 『日本紙幣の肖像やデザインの謎』日本貨幣商協同組合、2019年1月、165-166頁。ISBN 978-4-93-081024-3。
A号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/18 15:39 UTC 版)
1946年(昭和21年)2月17日の大蔵省告示第23号「日本銀行券百圓券及拾圓券樣式ノ件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 拾圓(10円) 表面 国会議事堂、鳳凰 裏面 彩紋 印章 〈表面〉総裁之印、発券局長 〈裏面〉なし 銘板 記載なし 記番号仕様記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)] 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 4桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし 寸法 縦76mm、横140mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1946年(昭和21年)2月14日 - 1954年(昭和29年)3月29日 記号(組番号)範囲 1 - 1977(1記号当たり5,000,000枚製造) 製造枚数 9,869,055,000枚 発行開始日 1946年(昭和21年)3月1日(告示上:同年2月25日) 支払停止日 1955年(昭和30年)4月1日 発行終了 有効券 終戦直後の猛烈なインフレーションの抑制策として、政府により新円切替が極秘裏に検討されていた。これは発表からごく短期間のうちに旧紙幣を全て無効化して金融機関に強制預金させたうえで預金封鎖し、代わりに発行高を制限した新紙幣(A号券)を発行して最低限度の生活費だけを引き出せるようにするものであった。これを実施するには従前の紙幣と明確に識別可能な新紙幣を急遽準備する必要が生じるため、印刷局の他に民間印刷会社4社に対して新紙幣のデザイン案の提案を求め、その中から「斬新なデザインのもの」を選ぶという選考方針のもとで新紙幣のデザイン案が決定された。紙幣の図案検討としては異例の指名型公募方式による選定であった。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の承認が必要であった。公募により採用された図案は、民間企業の凸版印刷株式会社によって提案された図案の1つであり、当初の案ではこの図案は伐折羅大将像の肖像を描いたA千円券の図案であった。インフレーションや闇取引助長の懸念から高額紙幣発行に対してGHQが反対したため、不発行となったA千円券のデザインを流用してA十円券の図案とすることで図案の申請が行われた。GHQによる図案の審査の結果、肖像が不適切であるとクレームが付き変更を指示されたため、伐折羅大将像を国会議事堂に差し替えてGHQの承認を得たうえで発行された。 券面を左右に二分した図柄が特徴的であり、表面左側には十字型の枠内に国会議事堂の中央塔部分を、右側には四角い輪郭枠の中に法隆寺の古鏡の鳳凰と胡蝶の図柄を描いたものであった。裏面には正倉院御物の古代裂から採った睡蓮と宝結びの模様を描いている。日本銀行券としては珍しく、券面上に日本銀行行章の図柄が含まれていないほか、円記号(「¥」)により額面金額が表記され、ローマ字表記による国名表示「NIPPON」の表記があるなど、他の券種とは一線を画した様式となっている。 しかしながら表面のデザイン全体が「米国」の漢字に見えることに加え、製造開始間際に十分な検討時間がない中で千円券を十円券の券面にするべく無理に修正した影響で、輪郭枠の「十」の連続模様が十字架の鎖のように見え、さらに千円券として検討されていた図柄を十円券の寸法に合わせて無理に縮小したために、右側左下の彩紋模様が圧縮されて進駐軍のMPのヘルメットの形状を連想させるなど、GHQの陰謀ではないかとの悪評が立ち国会でも問題となった。 異例の公募による図案決定と併せて、当初は紙幣の製造についても発行元の日本銀行から民間印刷会社に直接発注するように調達方式を変更する構想を大蔵省は持っていたが、極めて厳格な管理が求められる紙幣製造業務の特殊性から望ましくないとのGHQの意向によりこちらは実行されなかった。券面上から製造元を示す銘板の記載が省略されているが、これはこの調達方式変更の予定を見越したものである。結局のところ一部のい号券やろ号券などと同様に従来通り印刷局が一元的に紙幣製造の管理を行うこととなり、凸版印刷株式会社にて完成された版面を印刷局に引渡したうえで、印刷局とその委託を受けた大日本印刷や凸版印刷などの複数の民間印刷会社で分散して印刷されることとなった。 記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっている。記号の下2桁が製造工場を表しており、下表の通りA号券の中では最も多い13箇所の印刷所別に分類できる。このように多数の民間委託先でも印刷されたが、もともと紙幣として十分とは言い難い粗末な仕様であったことに加え、製造数量や秘密保持の管理が不十分で一部の委託先から製造中の半製品が外部流出するなどの問題が発生し、これらが偽造が多発する原因の一つとなったほか、用紙や刷色に変化が多く品質が不均一となっている。 製造工場記号下2桁大蔵省印刷局滝野川工場 12 大蔵省印刷局酒匂工場 22 大蔵省印刷局静岡工場 32 大蔵省印刷局彦根工場 42 凸版印刷板橋工場 13 凸版印刷富士工場 23 凸版印刷大阪工場 33 大日本印刷市ヶ谷工場 14 大日本印刷秋田工場 24 大日本印刷新発田工場 34 共同印刷小石川工場 15 東京証券印刷王子工場 16 東京証券印刷武生工場 36 他の十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない。なおA号券の紙幣用紙の抄造については緊急かつ大量に必要となることから、印刷局の工場だけでは賄いきれず一部は民間製紙会社においても抄造が行われている。いずれも発行された日本銀行券の中では初めてのことであり、これ以降もこのような事例は存在していない。 使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。印刷方式は、製造効率を優先したため当初は両面とも平版印刷であったが、透かしもなく印刷色数も最低限という余りにも簡素な仕様であることから精巧な偽造券が発生する可能性を考慮して2度にわたり変更が行われ、1度目の変更では表面が凸版印刷で裏面が平版印刷、2度目の変更では両面とも凸版印刷という変遷をたどっている。 A十円券の製造終了は、十円硬貨(十円青銅貨)が市中に出回り始めた1953年(昭和28年)であった。 日本の現在発行されていない旧紙幣の中では現存数が非常に多く、しばしば未使用の100枚帯封などが古銭市場やネットオークション等に現れるほどであり、古銭商による買取の場合、1枚での買取はほとんど期待できず、ある程度まとまった枚数で買い取ってもらう場合も、額面を若干超えた程度となるのが一般である。
※この「A号券」の解説は、「十円紙幣」の解説の一部です。
「A号券」を含む「十円紙幣」の記事については、「十円紙幣」の概要を参照ください。
A号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:58 UTC 版)
1946年(昭和21年)3月19日の大蔵省告示第123号「日本銀行券壹圓券ノ樣式ノ件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 壹圓(1円) 表面 二宮尊徳、ニワトリ、麦・稲などの食料 裏面 彩紋 印章 〈表面〉総裁之印、発券局長 〈裏面〉なし 銘板 記載なし 記番号仕様記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)] 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 4桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし 寸法 縦68mm、横124mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1946年(昭和21年)3月8日 - 1957年(昭和32年)3月29日 記号(組番号)範囲 1 - 1156(1記号当たり5,000,000枚製造) 製造枚数 6,278,185,080枚 発行開始日 1946年(昭和21年)3月20日(告示上:同年3月19日) 支払停止日 1958年(昭和33年)10月1日 発行終了 有効券 終戦直後の猛烈なインフレーションの抑制策として、政府により新円切替が極秘裏に検討されていた。これは発表からごく短期間のうちに旧紙幣を全て無効化して金融機関に強制預金させたうえで預金封鎖し、代わりに発行高を制限した新紙幣(A号券)を発行して最低限度の生活費だけを引き出せるようにするものであった。これを実施するには従前の紙幣と明確に識別可能な新紙幣を急遽準備する必要が生じるため、印刷局の他に民間印刷会社4社に対して新紙幣のデザイン案の提案を求め、その中から「斬新なデザインのもの」を選ぶという選考方針のもとで新紙幣のデザイン案が決定された。紙幣の図案検討としては異例の指名型公募方式による選定であった。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の承認が必要であった。公募により採用された図案は、民間企業の凸版印刷株式会社によって提案された図案の1つであり、当初の案は最終的に発行されたものとほぼ同一の図案で人物肖像は武内宿禰となっていた。GHQによる図案の審査の結果、武内宿禰は軍国主義のシンボルであり新紙幣の人物肖像として不適切であるとして変更を指示されたため、肖像を二宮尊徳に差し替えてGHQの承認を得たうえで発行された。 表面右側に描かれている二宮尊徳の肖像は、神奈川県小田原市にある報徳二宮神社が参拝記念品として販売していた絵図を参考にしたものとされる。表面下部には雄鶏の他、麦、稲、甘薯、蜜柑、玉蜀黍といった食料を描いているが、これは当時の食糧難の時勢を反映した図柄である。裏面は彩紋と唐草模様のみで、単色刷りの簡易な図柄となっている。 異例の公募による図案決定と併せて、当初は紙幣の製造についても発行元の日本銀行から民間印刷会社に直接発注するように調達方式を変更する構想を大蔵省は持っていたが、極めて厳格な管理が求められる紙幣製造業務の特殊性から望ましくないとのGHQの意向によりこちらは実行されなかった。券面上から製造元を示す銘板の記載が省略されているが、これはこの調達方式変更の予定を見越したものである。結局のところ一部のい号券やろ号券などと同様に従来通り印刷局が一元的に紙幣製造の管理を行うこととなり、凸版印刷株式会社にて完成された版面を印刷局に引渡したうえで、印刷局とその委託を受けた大日本印刷や凸版印刷などの複数の民間印刷会社で分散して印刷されることとなった。 記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっており、多くの日本銀行券と異なり、紙幣右上の1ヶ所にしか印刷されていない。記号の下2桁が製造工場を表しており、下表の通り9箇所の印刷所別に分類できる。このように多数の民間委託先でも印刷されたが、もともと紙幣として十分とは言い難い粗末な仕様であったことに加え、製造数量や秘密保持の管理が不十分で一部の委託先から製造中の半製品が外部流出するなどの問題が発生し、これらが偽造が多発する原因の一つとなった。 製造工場記号下2桁大蔵省印刷局滝野川工場 12 大蔵省印刷局酒匂工場 22 大蔵省印刷局静岡工場 32 大蔵省印刷局彦根工場 42 凸版印刷板橋工場 13 大日本印刷榎町工場 44 共同印刷小石川工場 15 東京証券印刷王子工場 16 東京証券印刷小田原工場 26 他の十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない。なおA号券の紙幣用紙の抄造については緊急かつ大量に必要となることから、印刷局の工場だけでは賄いきれず一部は民間製紙会社においても抄造が行われている。いずれも発行された日本銀行券の中では初めてのことであり、これ以降もこのような事例は存在していない。 使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。印刷方式は、製造効率を優先したため当初は両面とも平版印刷であったが、透かしもなく印刷色数も最低限という余りにも簡素な仕様であることから精巧な偽造券が発生する可能性を考慮し、1949年(昭和24年)頃から両面とも凸版印刷に変更された。 1948年(昭和23年)10月に戦後初の一円硬貨として一円黄銅貨が発行されたが、その後もA一円券の製造は続けられた。ちなみにその一円黄銅貨は1953年(昭和28年)の年末に小額通貨整理法により通用停止となったため、有効な1円の法定通貨は再び一円紙幣のみとなった。そして1955年(昭和30年)6月の一円アルミニウム貨の発行後、1956年(昭和31年)にA一円券の製造が中止され、1958年(昭和33年)にA一円券の日本銀行からの支払いが停止された。 額面金額5円の法定通貨では1948年(昭和23年)、額面金額10円の法定通貨では1953年(昭和28年)までにそれぞれ紙幣が製造終了となり硬貨化が行われたものの、上記の経緯から1954年(昭和29年)始めから1955年(昭和30年)6月の一円硬貨流通再開までの期間は10円・5円より小額の1円の法定通貨では硬貨が存在せず紙幣のみが発行されているという歪な状態となっていた。 日本の現在発行されていない旧紙幣の中では現存数が非常に多く、しばしば未使用の100枚帯封や1000枚完封が古銭市場やネットオークション等に現れるほどであり、古銭商による買取の場合、1枚での買取はほとんど期待できず、ある程度まとまった枚数で買い取ってもらう場合も、額面を若干超えた程度となるのが一般である。
※この「A号券」の解説は、「一円紙幣」の解説の一部です。
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A号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 14:42 UTC 版)
1947年(昭和22年)9月5日の大蔵省告示第205号「日本銀行券拾銭券の樣式」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 拾錢(10銭) 表面 鳩 裏面 国会議事堂 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉なし 銘板 印刷局製造 記番号仕様記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)] 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 3桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし 寸法 縦52mm、横100mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1947年(昭和22年)8月13日 - 1949年(昭和24年)12月12日 記号(組番号)範囲 1 - 116(1記号当たり5,000,000枚製造) 製造枚数 580,000,000枚 発行開始日 1947年(昭和22年)9月5日 通用停止日 1953年(昭和28年)12月31日 発行終了 失効券 造幣局は手持ちの資材を活用して終戦直後の1945年(昭和20年)11月から十銭アルミニウム貨の製造を始めた。これによりい拾錢券は製造・発行が中止された。しかしGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の政策により日本国内でアルミニウムの精錬が禁止されたことによる貨幣材料の入手困難に加え、インフレーションの昂進により材料価格が高騰し1946年(昭和21年)10月以降は十銭硬貨の製造が継続できない状況に陥ったことから、小額通貨の不足が深刻化したため再度の十銭紙幣の発行が決定された。 なおA号券の発行検討時にも、十銭紙幣を小額政府紙幣として発行することが選択肢の1つとして検討されたものの、い号券の発行時と同様に法改正が不要であり大蔵大臣の告示のみで対応できることから従来通り日本銀行券として発行された。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQの許可が必要であった。加えて1946年(昭和21年)にはGHQにより軍国主義的と見做されたデザインの紙幣と郵便切手の新規発行が原則禁止されたことを受け、再度の十銭紙幣発行に合わせてそのデザインの改訂を行ったものである。 デザインに鳩や国会議事堂を使うなど戦時中のい号券と印象が異なっている。表面右側には平和の象徴とされる鳩が、裏面左側には民主主義の象徴として国会議事堂が描かれている。菊花紋章が描かれた最後の紙幣であり、旧字体・右横書きで文言が記載されている最後の紙幣でもある。券面寸法が小さいことから印章は表面の「総裁之印」の1個のみであり「発券局長」の印章は省略されている。 紙幣の印刷は一部を除き民間印刷会社へ委託されていたが、印刷された工場に関わらず銘板は「印刷局製造」である。 記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっている。記号の下2桁が製造工場を表しており、下表の通り製造された7箇所の印刷所別に分類できる。 製造工場記号下2桁大蔵省印刷局滝野川工場 12 大蔵省印刷局静岡工場 32 凸版印刷板橋工場 13 凸版印刷大阪工場 33 共同印刷小石川工場 15 東京証券印刷王子工場 16 東京証券印刷小田原工場 26 同時期に発行された十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない。 使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。印刷方式は両面とも平版印刷の簡易な紙幣である。 製造期間は1947年度(昭和22年度)から1949年度(昭和24年度)までであった。
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A号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 14:41 UTC 版)
1948年(昭和23年)5月25日の大蔵省告示第157号「昭和二十三年五月二十五日から発行する日本銀行券五銭の樣式」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 五銭(5銭) 表面 梅 裏面 彩紋 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉なし 銘板 印刷局製造 記番号仕様記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)] 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 2桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし 寸法 縦48mm、横94mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1948年(昭和23年)5月20日 - 1948年(昭和23年)6月29日 記号(組番号)範囲 1 - 12(1記号当たり5,000,000枚製造) 製造枚数 60,000,000枚 発行開始日 1948年(昭和23年)5月25日 通用停止日 1953年(昭和28年)12月31日 発行終了 失効券 造幣局は手持ちの資材を活用して終戦直後の1945年(昭和20年)12月から五銭錫貨の製造を始めた。これと前後してい五錢券は製造・発行が中止された。しかしマレー半島などの旧日本軍占領地域が主要産地であった錫の輸入途絶による貨幣材料の入手困難に加え、インフレーションの昂進により材料価格が高騰し1946年(昭和21年)10月以降は五銭硬貨の製造が継続できない状況に陥ったことから、将来的に小額通貨の不足の可能性があるとして再度の五銭紙幣の発行が決定された。なお終戦前後の猛烈なインフレーションにより額面金額5銭の法定通貨の需要はごく僅かとなっていたため、五十銭紙幣・十銭紙幣の場合と異なり小額通貨の現金不足は顕在化していなかったものの予防的に発行されている。 なおA号券の発行検討時にも、五銭紙幣を小額政府紙幣として発行することが選択肢の1つとして検討されたものの、い号券の発行時と同様に法改正が不要であり大蔵大臣の告示のみで対応できることから従来通り日本銀行券として発行された。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可が必要であった。加えて1946年(昭和21年)にはGHQにより軍国主義的と見做されたデザインの紙幣と郵便切手の新規発行が原則禁止されたことを受け、再度の五銭紙幣発行に合わせてそのデザインの改訂を行ったものである。 デザインに梅を使うなど戦時中のい号券と印象が異なっている。表面右側には「忍耐と努力により敗戦から立ち直ること」を象徴するものとして梅花が描かれている。裏面は彩紋のみの簡易な図柄となっている。以降に発行される日本銀行券と同様に、文言が新字体・左横書きの表記で菊花紋章が削除されているが、これはA号券の内では唯一である。券面寸法が小さいことから印章は表面の「総裁之印」の1個のみであり「発券局長」の印章は省略されている。 紙幣の印刷は全て民間印刷会社へ委託されていたが、銘板は「印刷局製造」である。 記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっている。記号の下2桁が製造工場を表しているが、このA五銭券は凸版印刷板橋工場(記号下2桁が13)で製造されたものしか存在しない。 同時期に発行された十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない。また日本銀行券の中で最小の寸法である。 使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。印刷方式は両面とも平版印刷の簡易な紙幣である。 製造期間は1948年(昭和23年)5月から6月までの2ヶ月間のみであった。
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A号券
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1946年(昭和21年)3月5日の大蔵省告示第97号「日本銀行券五圓券ノ樣式ノ件」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行券 額面 五圓(5円) 表面 彩紋 裏面 彩紋 印章 〈表面〉総裁之印、発券局長 〈裏面〉なし 銘板 記載なし 記番号仕様記番号色 赤色[通し番号なし(組番号のみ)] 記番号構成 〈記号〉「1」+組番号:数字1 - 2桁+製造工場:数字2桁 〈番号〉通し番号なし 寸法 縦68mm、横132mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1946年(昭和21年)3月7日 - 1946年(昭和21年)12月19日 記号(組番号)範囲 1 - 92(1記号当たり5,000,000枚製造) 製造枚数 460,000,000枚 発行開始日 1946年(昭和21年)3月8日(告示上:同年3月5日) 支払停止日 1955年(昭和30年)4月1日 発行終了 有効券 終戦直後の猛烈なインフレーションの抑制策として、政府により新円切替が極秘裏に検討されていた。これは発表からごく短期間のうちに旧紙幣を全て無効化して金融機関に強制預金させたうえで預金封鎖し、代わりに発行高を制限した新紙幣(A号券)を発行して最低限度の生活費だけを引き出せるようにするものであった。これを実施するには従前の紙幣と明確に識別可能な新紙幣を急遽準備する必要が生じるため、印刷局の他に民間印刷会社4社に対して新紙幣のデザイン案の提案を求め、その中から「斬新なデザインのもの」を選ぶという選考方針のもとで新紙幣のデザイン案が決定された。紙幣の図案検討としては異例の指名型公募方式による選定であった。 連合国軍占領下の当時は改刷を行い新紙幣を発行する場合、図案についてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の許可が必要であった。公募により採用された図案は、民間企業の凸版印刷株式会社によって提案された図案の1つである。肖像や風景が一切なく彩紋模様のみの無難な図柄ということで、当初の案がそのままGHQにより承認され発行された。 表面だけでなく裏面も彩紋と唐草模様のみで、特に裏面は単色刷りの簡易な図柄となっている。表裏両面とも肖像や風景などの図柄がない。改造券からA号券までに発行された日本銀行券では菊花紋章が表面中央上部に配置されていたが、A五円券に限っては右上に配置されている点で特異である。 異例の公募による図案決定と併せて、当初は紙幣の製造についても発行元の日本銀行から民間印刷会社に直接発注するように調達方式を変更する構想を大蔵省は持っていたが、極めて厳格な管理が求められる紙幣製造業務の特殊性から望ましくないとのGHQの意向によりこちらは実行されなかった。券面上から製造元を示す銘板の記載が省略されているが、これはこの調達方式変更の予定を見越したものである。結局のところ一部のい号券やろ号券などと同様に従来通り印刷局が一元的に紙幣製造の管理を行うこととなり、凸版印刷株式会社にて完成された版面を印刷局に引渡したうえで、印刷局とその委託を受けた大日本印刷や凸版印刷などの複数の民間印刷会社で分散して印刷されることとなった。 記番号については通し番号はなく記号のみの表記となっている。記号の下2桁が製造工場を表しており、下表の通り5箇所の印刷所別に分類できる。このように多数の民間委託先でも印刷されたが、もともと紙幣として十分とは言い難い粗末な仕様であったことに加え、製造数量や秘密保持の管理が不十分で一部の委託先から製造中の半製品が外部流出するなどの問題が発生し、これらが偽造が多発する原因の一つとなった。 製造工場記号下2桁大蔵省印刷局滝野川工場 12 大蔵省印刷局酒匂工場 22 共同印刷小石川工場 15 東京証券印刷小田原工場 26 帝国印刷芝工場 17 他の十円券以下のA号券と同様に透かしは入っていない。なおA号券の紙幣用紙の抄造については緊急かつ大量に必要となることから、印刷局の工場だけでは賄いきれず一部は民間製紙会社においても抄造が行われている。いずれも発行された日本銀行券の中では初めてのことであり、これ以降もこのような事例は存在していない。 使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色となっている。印刷方式は、製造効率を優先したため両面とも平版印刷である。A一円券やA十円券とは異なり、製造期間が短かったことから印刷方式の変更は行われなかった。 A五円券が製造されたのは1946年(昭和21年)限りで、その2年後の1948年(昭和23年)には五円硬貨(穴ナシ五円黄銅貨)が登場した。 現在法律上有効な唯一の五円紙幣である。仮に損傷紙幣としてこのA五円券を日本銀行に持ち込み、その面積が半額交換相当(元の2/5以上2/3未満)であった場合は、1円未満の端数は切り捨てられるため、2円として引き換えられる。
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