丙号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 16:39 UTC 版)
日本銀行の文字を印刷していない紙幣に「大日本帝国政府軍用手票」の文字を印刷して発行。
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丙号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:00 UTC 版)
壹角が追加され、百圓、拾圓、五圓、壹圓、五角の計6種を発行。表面のデザインは小幅変更。裏面は百圓と壹圓のデザインが改訂されたほか、印刷色の変更が行われている。
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丙号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/18 15:39 UTC 版)
1930年(昭和5年)5月15日の大蔵省告示第102号「兌換銀行券改造」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 拾圓(10円) 表面 和気清麻呂、兌換文言 裏面 護王神社本殿、断切文字 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長 銘板 大日本帝國政府内閣印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1 - 4桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦81mm、横142mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1928年(昭和3年)10月19日 - 1943年(昭和18年)4月28日 記号(組番号)範囲 1 - 1179(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 1,061,070,000枚 発行開始日 1930年(昭和5年)5月21日 通用停止日 1946年(昭和21年)3月2日(証紙貼付券に限り1946年(昭和21年)10月31日) 発行終了 失効券 関東大震災により滅失した兌換券の整理が必要となったことから1927年(昭和2年)2月に兌換銀行券整理法が制定され、従来の兌換券を失効させて新しい兌換券に交換するため、乙百圓券・丙拾圓券・丁五圓券が新たに発行された。 これまでに発行された日本銀行券では複数券種に同じ肖像が用いられるなどした結果、券種間の識別が紛らわしくなっていたことなどから、額面ごとに肖像人物を固定化することとし、さらに輪郭や地模様、透かしに至るまで入念な検討のもとに肖像人物と関連性のある図柄が描かれることとなった。デザイン面、印刷技術面の両面で、日本国内のみならず日本国外からも高く評価された紙幣である。 表面右側には和気清麻呂の肖像が描かれている。この肖像については、エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像の原画が関東大震災の被害により焼失したため、他の紙幣の肖像を基に新たに作成されたものである。表面中央に地模様として正倉院御物「鹿草木夾纈屏風」の樹木の図柄と、同じく正倉院御物「鳥草夾纈屏風」の瑞鳥の図柄が描かれている。 裏面には中央に京都市上京区にある和気清麻呂ゆかりの護王神社の本殿と、左右の「拾」の文字が配された彩紋模様の上下には正倉院御物の「雙六局の木匣」の花模様があしらわれている。また裏面右端には「日本銀行」の断切文字が配置されている。これまで記載されていた英語表記の兌換文言は本券種から廃止され、英語表記は額面金額のみとなっている。正倉院御物にまつわる図案をふんだんに盛り込んだデザインとなっており、表面の意匠は不換紙幣のい号券に流用されている。 透かしは「拾圓」の文字と、肖像の和気清麻呂と関わりの深い神護寺の古瓦の図柄である。用紙については従前どおり三椏を原料とするものであるが、製法の変更により以前よりもやや黄色がかった色調の用紙に変更されている。また、従来の紙幣は寸法に統一性がなく取扱いが不便であったため、他額面の紙幣も含め一定の縦横比に統一した規格に揃えている。この券面寸法の規格は、十円紙幣では1945年(昭和20年)に発行開始されるろ拾圓券まで維持されている。 使用色数は、表面6色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様3色、印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章・断切文字1色)となっている。 丙号券からろ号券までの10円券は、全て和気清麻呂が描かれており、通称では「1次」~「4次」と呼ばれているので、この丙号券は「1次10円」となる。このうちろ号券(4次10円)以外の「1次」~「3次」はデザインが類似している。それ以前の改造券・甲号券・乙号券も和気清麻呂が描かれているが、これらは「何次」とは呼ばれない。 1931年(昭和6年)12月の金兌換停止に伴い、それ以降は事実上の不換紙幣となり、1942年(昭和17年)5月の日本銀行法施行による金本位制の廃止に伴って法的にも不換紙幣として扱われることになった。 新円切替のため1946年(昭和21年)3月2日限りで通用停止となった。新円切替の際、丙号券~ろ号券に証紙を貼付し、臨時に新券の代わりとした「証紙貼付券」が発行された。この証紙貼付券は十分な量の新円の紙幣(A号券)が供給された1946年(昭和21年)10月末限りで失効した。
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丙号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:21 UTC 版)
1927年(昭和2年)5月10日の大蔵省告示第85号「日本銀行發行兌換銀行券ノ内貮百圓券發行」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 貳百圓(200円) 表面 武内宿禰、兌換文言 裏面 彩紋 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長 銘板 大日本帝國政府内閣印刷局製造 記番号仕様記番号色 赤色 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦97mm、横188mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1927年(昭和2年)5月4日 - 1927年(昭和2年)5月14日 記号(組番号)範囲 1 - 9(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 7,500,000枚 発行開始日 1945年(昭和20年)8月16日(告示上:1927年(昭和2年)5月12日) 通用停止日 1946年(昭和21年)3月2日(証紙貼付券に限り1946年(昭和21年)10月31日) 発行終了 失効券 昭和金融恐慌の混乱の中で増大する紙幣の需要を賄うために大蔵省告示で制定され、モラトリアム令の解除後の銀行預金払い出しに備えて急造された紙幣である。裏面に赤い文様が刷られた事から「ウラアカ」と呼ばれた。 乙号券が余りにも極端に簡易だったことからこれに代わって制定されたものであり、乙号券よりは作り込まれているが乙号券と同様のオフセット印刷による製造である。デザインは不発行となった甲号券のものを流用・一部改変したものである。甲号券と同様に表面は武内宿禰の肖像、裏面は赤色の彩紋であるが、表面の地模様が変更されており、裏面の赤色の色合いが若干濃くなり、「日本銀行」の断切文字は削除され、銘板は「大日本帝国政府内閣印刷局製造」となっている。また、武内宿禰の肖像は甲号券と同様に他券種からの複製であるが、異なる複製元から作成されたため細部が異なっている。 乙号券と同様に用紙は日本銀行の遠隔地払戻用紙を転用したものであり、透かしは乙号券と同じ日本銀行行章と「銀」の文字の白透かしによるちらし透かしである。 使用色数は、表面3色(内訳は主模様1色、地模様1色、印章・記番号1色)、裏面1色(印章含む)となっており、甲号券よりも減らされている。 預金払い戻しに備えて銀行に届けられたものの預金者には渡らず、そのまま回収され将来のインフレ等の緊急事態に備えて日本銀行に死蔵された。終戦前の1945年(昭和20年)4月16日により本格的なデザインの丁号券が発行された後、終戦直後の1945年(昭和20年)8月16日付けで膨大な紙幣が必要になったことからこの丙号券が発行されたが、新円切替に伴い発行から1年も経たず1946年(昭和21年)3月2日限りで失効した。丙号券および丁号券については、失効後も証紙を貼り付けて臨時に新券の代わりとする「証紙貼付券」が発行され流通・通用したが、この「証紙貼付券」も1946年(昭和21年)10月末限りで失効した。 「日本銀行兌換券」と表記されているものの、実質的な発行開始時点で既に1942年(昭和17年)5月の日本銀行法施行により金本位制が廃止されていたため、実質的にも法的にも不換紙幣として扱われており金貨との兌換は行われていなかった。 現在の古銭市場での価値は、数万円~数十万円が目安であり丁号券より高く乙号券より低い。
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丙号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 09:01 UTC 版)
1916年(大正5年)12月1日の大蔵省告示第163号「兌換銀行券五圓券見本略圖」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 五圓(5円) 表面 武内宿禰と宇倍神社拝殿、兌換文言 裏面 彩紋、英語表記の兌換文言、断切文字 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長 銘板 大日本帝國政府印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1 - 3桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦73mm、横130mm(縦2寸4分3厘、横4寸3分1厘) 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1916年(大正5年)11月17日 - 1928年(昭和3年)2月11日 記号(組番号)範囲 1 - 191(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 171,620,000枚 発行開始日 1916年(大正5年)12月15日 通用停止日 1939年(昭和14年)3月31日 発行終了 失効券 当時としては斬新なデザインの乙号券が国民から受け入れられず「幽霊札」と呼ばれるなど不評であったことから、僅か6年後に改刷が行われ、額縁状の輪郭や、黒色の肖像、透かしのすき入れ位置への図柄の印刷など、伝統的なデザイン構成に回帰している。通称は「大正武内5円」「白ひげ5円」である。 表面の右側には武内宿禰、左側には鳥取県鳥取市にある宇倍神社の拝殿の風景が描かれている。裏面には彩紋模様と英語表記の兌換文言が記載されているが、当時ヨーロッパを中心に流行していたアール・ヌーヴォー調のデザインとなっており、裏面右端には「日本銀行」の断切文字が配置されている。当初は坂上田村麻呂が肖像の候補として検討されており文献資料を基に正確な時代考証に基づく肖像画の検討が行われていたが、最終的に甲号券と同様の武内宿禰の肖像が採用された。 透かしは「日本銀行」の文字と網目模様である。 使用色数は、表面6色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様3色、印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章・断切文字1色)となっている。 1927年(昭和2年)2月に制定された兌換銀行券整理法により1939年(昭和14年)3月31日限りで通用停止となった。
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