丙午
丙午(ひのえうま)とは、簡単にいえば干支(えと)の第43番目に位置する名である。やや詳しくいえば、古来の暦法などに用いられた「十干十二支」の組み合わせの一つで、十干の「丙」と十二支の「午」の組み合わせである。
十干十二支は、かつては年・時刻・方位など様々な物事を表す記号として用いられたが、近年では実用上の目的で用いられることはほとんどない。ただ、六曜と同様、験担ぎなどの意味を込めて暦の上で参照される場合はある。
具体的な丙午の年は、1966年(昭和41年)、2026年(令和8年)などである。
そもそも十干十二支とは
十干十二支は、古代中国で成立した記数法で、日本を含む東アジア諸国で広く用いられてきた。「十二支十干」や「六十干支」などとも呼ばれる。略して「干支(えと)」とだけ呼ばれることも多い。十干は陰陽五行に基づいて「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種から成り、十二支は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種から成る。
十干十二支は全60あり、丙午は第43番目に位置する。干支は循環記号であり、最後(癸亥)の次は最初(甲子)に戻る。年を数える場合には60年周期であり、一巡することを「還暦」という。
丙午の読み方
丙午の読み方は「ひのえうま」もしくは「へいご」である。干支としての用法においては「ひのえうま」と訓読みするのが一般的である。十干十二支にちなんだ名称(たとえば「壬申の乱」「戊辰戦争」「甲子園」など)は、音読みで呼ばれることが多いが、「丙午」は施設名や事件名に用いられることが稀であるため、「へいご」と読まれる事例は少ない。
丙午の名を冠する名称としては、宗教家であり社会学者の高嶋米峰が1906年(明治39年、丙午)に共同設立した「丙午出版社」や、同じ1906年に京都で結成された画家集団「丙午画会」などの例がある。
1906年生まれで「丙午」にちなんだ名をつけられた著名人としては、岐阜出身の実業家・政治家である藤井丙午、および、本名の炳五(へいご)が丙午にちなんで名付けられた旨を随筆「ヒノエウマの話」に認めた作家・坂口安吾がいる。
丙午と俗信について
十二支十干は、陰陽思想(木火土金水の五行思想)と関わりが深い。そのためもあってか、俗信・迷信が伴いやすい。とりわけ丙午は、火性が重なる干支とされ、丙午の年には「大火に見舞われる」「出生率が下がる」といった噂が囁かれてきた。十干十二支にちなんだ名称として「丙午」を冠する例が著しく少ないのも、こうした否定的イメージによって忌避されている可能性は考えられる。
こうした俗信が、歴史的な事実と符合するように見える場合もある。しかし、統計的に有意な傾向が確認されているわけではない。科学的観点からいえば偶然そう見える(ように演出された)と考えざるを得ない。
丙午の年に生まれた女性は気性が荒い説
「丙午の年に生まれた女性は、気性が激しく、夫を早死にさせる」といった俗説については、明治・大正の頃にもよく取り沙汰されていた記録が残っている。戦後、1966年の丙午の年は、前年比で極端に出生数が減少したという調査結果も出て、いわゆる「丙午の女」のレッテル貼りにいくらかの信憑性を見出す(あるいは意図的に関連づけて面白おかしく語る)ような世間的な風潮があった。
丙午の年は大火に見舞われる説
木火土金水の五行において「丙」と「午」はどちらも火性に属している。この「火が重なる」イメージは「火災」に結びつきやすいといえる。火は「陰陽」でいえば陽の気に属しており、この「陽気が重なる」イメージが過剰であり凶相と捉えられたことも考えられる。
江戸時代に放火犯として火刑になった実在の人物「八百屋お七」は、しばしば丙午の年と結びつけて語られる。丙午の「火災」および「気性の荒い女」のイメージが両方とも高い親和性をもって結びつくキャラクターであるためと考えられる。実在したお七が丙午の生まれである証拠はなく、むしろ資料の辻褄が合わなくなる。そのため、「お七は丙午の生まれ」という話は、出所不明の俗説であるか、あるいはお七を創作の題材とした人物が後づけで設定したものであろうと推測される。
いわゆる「江戸の三大大火」に数えられる大規模火災は、それぞれ明暦の大火(1657年)が「丁酉(ひのととり)」、明和の大火(1772年)は「壬辰(みずのえたつ)」、文化の大火(1806年)は「丙寅(ひのえとら)」の年である。いずれも丙午ではない。
この他、数十回におよぶ江戸の大規模火災や、その前後の時代の目立った大規模火災も、丙午ではない年に発生していることが多い。むしろ丙午の年は歴史的な規模の火災が少ない。
丙午の反対は
十干十二支のうち、「火性が重なる」丙午とは対称的に、「水性が重なる」組み合わせが、壬子(みずのえね)である。壬子も、丙午の対極にある凶相と位置づけ、水難・水災に結びつけて考える迷信がわずかに見られたようだが、これは丙午ほど支持を得なかったようである。文学作品における「丙午」への言及
青空文庫で参照可能な近代文学作品の中で「丙午」の俗信に言及している箇所を紹介する。井上円了「迷信解」
古来、民間にて「丙午ひのえうまの女は男を殺す」との諺ことわざがあるが、その意は、丙は陽火に当たり、午は南方の火に当たるゆえに、火に火を加えたるものなれば、その力、男を殺すべき性質であると申すことじゃ。笑うべきの至りである。——井上円了「迷信解」(青空文庫)坂口安吾「ヒノエウマの話」
私の本名は炳五(ヘイゴ)という。(中略)ヒノエウマづくしのような名前だ。(中略)私が子供のころ、親類のジイサン、バアサンなどが頭をなでてくれたりしながら、お前男に生れてよかったな、女なら悲しい思いをしなければならないなどとよく言われたものである。——坂口安吾「ヒノエウマの話」(青空文庫)森鴎外「半日」
奧さんは突然緘默を破つて、「なんにしろ丙午なのだから」と、獨言のやうに云つた。これは博士の母君の干支えとである。博士は常談に、お母かあ樣は豪傑だ、奧參謀總長と一しよに生れたのだからと云つてゐるのである。——森鴎外「半日」(青空文庫)豊島与志雄「溺るるもの」
彼女は今年二十三、丙午の歳だった。「大変な歳に生れついたもんだね。九族を殺すっていうよ。」——豊島与志雄「溺るるもの」(青空文庫)壺井榮「妻の座」
閑子は丙午年生れの女であった。そのために受ける不当な迫害と取っ組んで、ミネにいわせれば必要以上にまで青春を葬り、身一つをただ潔白に守り通すことで年をとってしまったような女だった。——壺井榮「妻の座」(青空文庫)火野葦平「花と龍」
「あたし、今、気がついたけど、今年は丙午よ。女でのうてよかったわ。丙午の女ははげしすぎて、男を食う、男を殺す、なんて、昔からいうけん」「そんなこた、迷信じゃよ。……」——火野葦平「花と龍」(青空文庫)丙午
ひのえ‐うま【▽丙▽午】
へい‐ご【丙午】
丙午
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 05:11 UTC 版)

干支 | |||||||||
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1 甲子 |
2 乙丑 |
3 丙寅 |
4 丁卯 |
5 戊辰 |
6 己巳 |
7 庚午 |
8 辛未 |
9 壬申 |
10 癸酉 |
11 甲戌 |
12 乙亥 |
13 丙子 |
14 丁丑 |
15 戊寅 |
16 己卯 |
17 庚辰 |
18 辛巳 |
19 壬午 |
20 癸未 |
21 甲申 |
22 乙酉 |
23 丙戌 |
24 丁亥 |
25 戊子 |
26 己丑 |
27 庚寅 |
28 辛卯 |
29 壬辰 |
30 癸巳 |
31 甲午 |
32 乙未 |
33 丙申 |
34 丁酉 |
35 戊戌 |
36 己亥 |
37 庚子 |
38 辛丑 |
39 壬寅 |
40 癸卯 |
41 甲辰 |
42 乙巳 |
43 丙午 |
44 丁未 |
45 戊申 |
46 己酉 |
47 庚戌 |
48 辛亥 |
49 壬子 |
50 癸丑 |
51 甲寅 |
52 乙卯 |
53 丙辰 |
54 丁巳 |
55 戊午 |
56 己未 |
57 庚申 |
58 辛酉 |
59 壬戌 |
60 癸亥 |
十干 ・ 十二支 |
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丙午(ひのえうま、へいご)は、干支の1つ。
干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳、次は丁未である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の午は陽の火で、比和である。
丙午の年
丙午は干・支ともに火性である。
1千年紀 | 2千年紀 | 3千年紀 |
---|---|---|
丙午生まれの迷信
由来
「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信がある。これは、江戸時代の初期の「丙午の年には火災が多い」という迷信が、八百屋お七が丙午の生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる[1][2]。
江戸時代には人の年齢はすべて数え年であり[3]、もしも八百屋お七が寛文6年(1666年)の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年(1683年)には18歳になる計算となるが、井原西鶴などの各種の伝記では16歳となっている[4][5]。しかし、浄瑠璃作家紀海音が浄瑠璃「八百やお七」でお七を丙午生まれとし、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また馬場文耕はその著作『近世江都著聞集』で谷中感応寺にお七が延宝4年(1676年)に掛けた額が11歳としたことが、生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。
紀海音は演劇界に強い影響力を持ち、文耕の近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語で有り、お七の丙午説はこのあたりから生じていると考えられている[6]。
なお、十干十二支を使用する他の東アジア諸国に上述のような迷信はなく、日本特有のものであるとされている[7]。
1906年
明治時代以降もこの迷信は続き、1906年(明治39年)の丙午では、前年より出生数が約4%減少した。当時の新聞には元日に産まれた女児の将来を案じる記事がある[8]ほか、生まれた女児の出生届を前後の年にずらして届け出ることもあったという[9]。
この1906年生まれの女性が結婚適齢期となる1920年代前半、特に1924年(大正13年)から1926年(大正15年/昭和元年)には、縁談の破談や婚期が遅れる悲観、家族の心無い言葉などが理由である女性の自殺の報道などが相次ぎ[8]、迷信を否定する談話や映画『丙午の女』(石巻良夫:監督、サクラプロダクション)[8]が製作されるなど、丙午生まれの迷信が女性の結婚に影響したことが窺われる[10]。夏目漱石は1907年に発表した小説『虞美人草』において、主人公の男を惑わす悪女、藤尾を「藤尾は丙午である」[11]と表現している。
1906年生まれの女性が結婚適齢期となった1920年代前半はモダンガールが一世を風靡した時代であり、自由奔放なモダンガールに嫌悪感を抱いた「伝統的価値観」を持つ人々が丙午迷信とモダンガールを結びつけた激しい迫害を行ったこと、丙午迷信による婚姻難で自殺した女性をメディアが大きく報道したことにより、丙午迷信が人口に広く膾炙する結果となった[7]。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災では、火災により役所の戸籍簿の多くが失われた。この戸籍の再編にあたり、丙午生まれの娘の出生年を偽り申請する親が激増した[12]。
この年に生まれた小説家坂口安吾は、本名は丙午を意味する炳五という名を付けられ、親類から「男に生まれて良かった」と言われたという話を文章に残している。坂口は、1954年の随筆でこの迷信はなかなか無くならないだろうと予言し[13]、実際1966年もその通りになった。
1966年

この迷信は昭和になっても依然根強く、1965年(昭和40年)の証券恐慌(昭和40年不況)の影響もあり、1966年(昭和41年)の出生率は前年に比べて25%下がった[14]。子供をもうけるのを避けたり妊娠中絶を行ったりした夫婦が地方や農村部を中心に多く[注 1]、出生数は136万974人[16]と他の年に比べて極端に少なくなった。一方で前年(182万人)および翌年(194万人)の出生数は増加している[8]。
1966年に生まれた子供は少なかったことから、この学年度(翌1967年の早生まれを含む人口は約160万人[17])の高校受験、大学受験が他の年より容易だったのかについては当時からしばしば論じられた話題であったが、大学一般の入学率については有意な差がみられないものの、国公立大学への進学率は1985年に上昇した[18]。1966年生まれの当事者への取材では、「高校の受験倍率が低く実力より上のレベルの学校に合格した」、「専門学校卒なのに有名企業に就職できた」旨の証言が得られている[7]。またこの年の子供は第一子(初めての子供)率が50.9%で統計史上過去最多であった。
この「昭和の丙午」による出生減少率は、迷信が広まった1666年以降で最も激しいものであったとされ、その背景には前回の「明治の丙午」世代の女性に多数の自殺者が発生したこと、平均寿命が大きく伸びたため当時の悲劇を記憶している人物が多数存命していたこと、迷信を助長する報道が1966年の数年前から行われていたことが影響していると考えられている[7]。
一方で、日本の地方自治体の中には丙午の迷信に対する取り組みを行う自治体があった。1965年11月には山形市で、法務省山形地方法務局が主催となった「ひのえうま追放運動」が展開され、同月21日には市内パレードで啓発を呼びかけた。同法務局によると、子どもを産む産まないで、離婚調停に至ったり、近所から嫌がらせを受けたなどの相談が多発したためである[19]。また、群馬県粕川村(現・前橋市粕川町)でも、村長主導で「迷信追放の村」を宣言して、同様の運動が行われた。村役場が1906年とその前後の年に誕生した女性1400人を調査して、丙午には根拠がないことを広報するなど取り組んだ[1]。福岡県久留米市は、1966年最初の広報紙で丙午を「むかしむかしのおとぎ話」「昨年は二人目のノーベル賞受賞者を出した科学日本に、もっともふさわしくない、まことに奇妙な風習」「童話の世界」と強い語気で否定した[20]。
2023年(令和5年)に大阪教育大学を卒業した学生が、卒業論文の一環で1966年生まれの女性に行ったアンケートでは、回答した142人の半数弱に気性が荒いと決めつけられた経験があり、言動の大半が母や祖母などの女性からのものだった。また、出生数の少なさや結婚できないという偏見から、嫌味を言われたり、厳しくしつけられたと述べた人もいた。しかし、丙午なら結婚や出産を避けるべきかという質問に賛成したのは1%にすぎず、丙午に否定的な印象を持つ人は殆んどいなかった[21][注 2]。1966年生まれの女性たちはいわゆる「バブル世代」であるが、「明治の丙午」世代のモダンガールが迫害されたのとは異なり、バブル世代の女性たちがその行動により迫害される事態が発生しなかったこと、1966年生まれである文仁親王妃紀子の結婚(1989年)に際し、丙午生まれであることが一切問題視されなかったことから、丙午迷信は遅くとも1989年までに収束したと考えられている[7]。
2026年
次回の丙午は2026年であるが、世界銀行はこのトレンドは継続しないと予測している[22]。2025年6月時点では、丙午の出産を避けようとする動きは把握されていない[7]。
2024年12月、桜井周の質問主意書に対し、政府は国立社会保障・人口問題研究所が公表している2026年の日本の将来推計人口の推計値は丙午の影響を考慮しておらず、こども未来戦略でも対策は取っていないと回答した[23]。なお2024年の出生数は68.5万人と1966年のほぼ半分になっている[24]。
丙午の月
西暦年の下1桁が2・7(十干が壬・丁)の年の5月が丙午の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(芒種から小暑の前日まで)を適用する場合もある。
丙午の日
選日
丙午の日は天一天上の14日目である。また、土以外の比和では唯一八専に含まれない。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 「〈昭和史探訪〉Vol.78 ひのえうま 迷信追放に挑んだ村」 2010年12月18日付『朝日新聞』 夕刊(web版:“昭和史再訪セレクション Vol.78 ひのえうま 迷信追放に挑んだ村”. 朝日新聞. 2012年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月13日閲覧。
- ^ 東京消防庁・消防雑学2012.9.20閲覧
- ^ 江戸東京たてもの園・2007年初春の雅2012.9.20閲覧
- ^ 井原西鶴 原著、吉行淳之介 現代語訳『好色五人女』河出書房新社、1979年、pp.66-86
- ^ サライ責任編集『十代目桂文治』昭和の名人完結編、小学館、2011年、pp.11-12および付属CD「八百屋お七」
- ^ 竹野 静男「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』vol.32、日本文学協会編集刊行、1983年、p.11
- ^ a b c d e f 《2026年に“令和の丙午”来たる》「義母から『これだから“丙午生まれの女”は』と…」迷信に翻弄された“昭和の丙午生まれ”女性のリアルな60年 - NEWSポストセブン(2025年6月8日)、2026年6月14日閲覧
- ^ a b c d 松浦國弘「「丙午生まれ」の悲劇 迷信で命を絶った女性たち」溝口常俊・編『愛知の大正・戦前昭和を歩く』風媒社 2023年 ISBN 978-4-8331-4308-0 P.150-153
- ^ 高橋眞一「明治大正期における地域人口の自然増加と移動の関連性」『國民經濟雜誌』187巻4号、神戸大学、2003年。
- ^ 報道の一例 「ことし十九歳の迷信に悩む娘たち 縁が遠いと「丙午」をかつぐ」 1924年2月10日付『朝日新聞』朝刊
- ^ 青空文庫 夏目漱石 『虞美人草』
- ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、475頁。ISBN 4-309-22361-3。
- ^ 坂口安吾 「ヒノエウマの話」 青空文庫
- ^ 慶應大学教授赤林英夫「丙午世代のその後-統計から分かること」2012.9.20閲覧
- ^ 「異常に多い人工中絶 厚生省・一~三月の調査」 1966年8月22日付『朝日新聞』夕刊
- ^ 内閣府『青少年白書』平成18年版
- ^ 1966年度生まれの18歳人口は約160万人[https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/kihon5/1kai/siryo6-2-7.pdf
- ^ 「丙午世代のその後-統計から分かること」赤林英夫(日本労働研究雑誌)[1]PDF-P.5
- ^ 『河北新報』1965年11月。
- ^ 「暮らしのしおり」 久留米市役所『市政くるめ』第188号 1966年1月5日
- ^ a b 島香奈恵 (2023年4月6日). “「丙午」の迷信、若者は気にする? …迫る3年後、「女性の気性激しい」前回は出生数激減”. 読売新聞社 2023年5月1日閲覧。
- ^ “The curse of the Fire-Horse: How superstition impacted fertility rates in Japan” (英語). blogs.worldbank.org (2019年1月22日). 2023年12月14日閲覧。
- ^ 産経新聞 (2024年12月25日). “令和8年は60年ぶりの丙午(ひのえうま) 産み控えに「必要な対策を検討」 政府答弁書”. 産経新聞:産経ニュース. 2024年12月27日閲覧。
- ^ “24年出生数68.5万人、初の70万人割れへ 民間試算”. 日本経済新聞 (2024年12月3日). 2024年12月27日閲覧。
関連項目
参考文献
- 新津隆夫、藤原理加『1966年生まれ 丙午女(ヒノエウマ・ウーマン)…60年に一度の元気者』小学館(原著1996年12月)。 ISBN 9784093872089。
丙午
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:26 UTC 版)
陰陽五行説によれば、丙も午もともに剛強なる陽であって火の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。 それが日本では、八百屋お七が丙午の年(1666年)生まれたという風説があったところから、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した。これは男性中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかった。この迷信は戦後になっても残り、1966年の出生数は、前年比で45万人減少した136万人だった。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりおよそ57万人増え、193万人となった。なお、同様に火の重なる丁巳(ひのとみ)は八専の一つである。
※この「丙午」の解説は、「干支」の解説の一部です。
「丙午」を含む「干支」の記事については、「干支」の概要を参照ください。
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