1千年紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/15 00:46 UTC 版)
千年紀: | 前1千年紀 - 1千年紀 - 2千年紀 |
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世紀: | 1世紀 2世紀 3世紀 4世紀 5世紀 6世紀 7世紀 8世紀 9世紀 10世紀 |
1千年紀(いっせんねんき)は、西暦紀元による1番目の千年紀(ミレニアム)である。西暦1年から西暦1000年(1世紀から10世紀)に当たる。
できごと




1世紀
2世紀
3世紀
- 中国、三国時代(魏、蜀、呉)。
- ペルシア、サーサーン朝(226年 - 651年)。
- 仏教、セイロン島に伝わる。
- 中国『魏志倭人伝』に邪馬台国が登場。
- 日本の時代区分:古墳時代(3世紀中頃 - 7世紀末)
4世紀
5世紀
6世紀
- サーサーン朝ペルシャ帝国が最盛期を迎える(ゾロアスター教が体系化される)。
- 中国、隋王朝(581年 - 618年) - およそ300年ぶりの統一王朝。
- 「倭」に代わって「日本」国号が使われ始める。
- 日本の時代区分:飛鳥時代(592年 - 710年)
7世紀
8世紀
9世紀
10世紀
- 中世の温暖期が始まる。
- 929年 - イスラム世界、東西カリフの分立(アッバース朝と後ウマイヤ朝)。
- 962年 - 西ヨーロッパ、神聖ローマ帝国成立( - 1806年)。
- 中国、五代十国時代(907年 - 960年)/宋王朝(北宋:960年 - 1127年)。
重要な人物
- アウグストゥス(紀元前63年 - 14年) -- ローマの皇帝
- イエス・キリスト(紀元前4年ごろ - 29年ごろ) -- キリスト教の中心人物
- プルタルコス -- ギリシャの歴史家
- パウロ -- 初期キリスト教の理論家
- 卑弥呼 -- 邪馬台国女王
- 蔡倫 -- 中国の紙の発明者
- 張衡 -- 中国の天文学者、数学者、詩人
- クラウディオス・プトレマイオス -- ギリシャの天文学者、数学者
- コンスタンティヌス1世 -- ローマの皇帝
- 無著 -- 大乗仏教の学者
- アッティラ -- フン族の王
- 煬帝 -- 隋の皇帝
- ムハンマド(570年ごろ - 632年) -- イスラム教の創始者
- 玄宗 -- 唐の皇帝
- カール大帝 -- フランク王国国王、西ローマ帝国皇帝
- フワーリズミー -- ペルシャの数学者
発明・発見
遺跡
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脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
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1千年紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:59 UTC 版)
キリスト教信仰は、政府の弾圧にもかかわらず西暦64年から313年の間にローマ帝国内で花開いた。聖書以外で「クリスチャン」という言葉が出てくる最古例は、タキトゥスによる記録で、皇帝ネロが64年のローマの大火をキリスト教徒の犯行だと非難したとするもの。 200年頃にはテルトゥリアヌスがキリスト教徒迫害について「殉教者の血は(教会)の種となる」と語った言葉が引用された。エウセビオスの『教会史』2巻25章4節の記述(英文)では ローマ人テルトゥリアヌスもまた(ネロがキリスト教の敵となった最初の皇帝であることの)証人である。彼は次のように書いている記録を調べてみよ。そうすればこの教義を最初に弾圧したのがネロで、東方を征服したあと今まで以上にローマで残酷の限りを尽くしたことがわかるだろう。彼のような男が我々を迫害するリーダーであったことを誇りに思う。なぜならネロを知っている人間ならわかることだが、あの男は非常に素晴らしいものは必ずつぶしにかかるからだ。 313年、皇帝コンスタンティヌス1世の発布した ミラノ勅令によりキリスト教が公認され、正式に弾圧が終わった。同皇帝の下で、第1ニカイア公会議(コンスタンティヌス大帝の宗教政策 Constantinian shiftとも呼ばれる)に始まり、キリスト教徒は政治への強い影響力を手に入れた。その結果起こった様々な出来事は今日までも論争の的になっている。 380年にはテオドシウス1世がニカイアのキリスト教を国教と定め、392年には他宗教を禁止し、キリスト教は古代ローマ帝国で完全に国教化した。かつての迫害期から考えれば、とてつもない変化である。 キリスト教徒達は目に見える普遍教会を統率し指導していくために、何世紀もかかってヒエラルキーを作り上げた。教会の成立時から1054年の大シスマ(東西教会の分裂)までの期間、全てのキリスト教徒は主教(司教)という地元の、そして総主教(総大司教)という地域の指導者の下、目に見える1つの組織である唯一の教会に属していた。 しかし451年のカルケドン公会議の頃から既に教義の解釈の違いから小さな分裂が起こっており、全地公会議が続く間も続いていた。
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