780年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/01 04:57 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動千年紀: | 1千年紀 |
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世紀: | 7世紀 - 8世紀 - 9世紀 |
十年紀: | 750年代 760年代 770年代 - 780年代 - 790年代 800年代 810年代 |
年: | 780年 781年 782年 783年 784年 785年 786年 787年 788年 789年 |
780年代(ななひゃくはちじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)780年から789年までの10年間を指す十年紀。
できごと
780年
781年
784年
- 日本、長岡京に遷都。
785年
786年
- アッバース朝で、ハールーン・アッラシードがカリフとなる(-809年)。(アッバース朝の最盛期)
787年
- 第2ニカイア公会議(第七全地公会)でキリスト教が聖像使用の教義を確認。
- 787年頃、北アイルランドのストラングフォード湾の入り江に潮力水車が建てられた。潮力水車は、修道士たちが近所の修道院用にトウモロコシを粉にするため使用された。[1]
788年
789年
出典
- ^ チャロナー 2011, p. 138「潮力水車 アイルランド人修道士たちが、潮の水力を生かす。」
参考文献
- ジャック・チャロナー(編集)、2011、『人類の歴史を変えた発明 1001』、ゆまに書房 ISBN 978-4-8433-3467-6
関連項目
外部リンク
780年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:03 UTC 版)
詳細は「780年代」を参照 780年唐の宰相楊炎の建議により租庸調制から両税制へ税制を移行。 上治郡の大領伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城が焼失する(宝亀の乱)。 780年頃 - インドネシアのシャイレーンドラ朝がボロブドゥールの建設を始める。 781年唐の徳宗の抑圧策により河朔三鎮・河南二鎮の節度使(藩鎮)が反乱を起こす。 中央アジア出身の伊斯が長安の大秦寺に「大秦景教流行中国碑」を建立。 カシミール人の僧侶プラジュニャ(般若三蔵(英語版))が広州に到着。 光仁天皇が病気のため譲位し、桓武天皇が即位する。 782年フランク王国の宮廷学校にヨーク出身のアルクィンが招かれる(カロリング・ルネサンスの始まり)。 氷上川継の乱。 783年唐で朱泚の乱が起こり、皇帝徳宗が長安から逃亡。この時期に何家村の宝物が埋蔵されたか(何家村唐代窖藏)。 フランク王カールの命で『ゴデスカルクの福音書(英語版)』が作られる。 784年 - 長岡京に遷都。 785年長岡京建設の責任者藤原種継が暗殺される。この事件で桓武天皇の弟で皇太子の早良親王が流罪となるがその途上で憤死。 唐の徳宗の命で楊良瑶(中国語版)がアッバース朝に派遣される。 淮南西道節度使李希烈のもとに使者として派遣された顔真卿が殺害される。 786年アッバース朝でハールーン・アッ=ラシードがカリフとなる( - 809年)(アッバース朝の最盛期)。 フランク王カールがアーヘン大聖堂の建設に着手。 吐蕃の敦煌(沙州)占領。 787年 - 第2ニカイア公会議でキリスト教会での聖像使用の教義が確認される。 788年最澄が一乗止観院を建てる(後の比叡山延暦寺)。 インゲルハイム・アム・ライン国家会議。フランク国王カールがバイエルン部族公タッシロ3世(英語版)を追放する。 マグリブ西部のモロッコにイドリース朝が興る。 回鶻の頓莫賀達干と唐の咸安公主の結婚。 789年フランク王カールによる「一般訓令(Admonitio generalis)」。 インドから唐僧悟空(達摩駄都)が約40年ぶりに帰国。
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