730年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 16:08 UTC 版)
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千年紀: | 1千年紀 |
---|---|
世紀: | 7世紀 - 8世紀 - 9世紀 |
十年紀: | 700年代 710年代 720年代 - 730年代 - 740年代 750年代 760年代 |
年: | 730年 731年 732年 733年 734年 735年 736年 737年 738年 739年 |
730年代(ななひゃくさんじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)730年から739年までの10年間を指す十年紀。
できごと
732年
- トゥール・ポワティエ間の戦いで、カール・マルテル率いるフランク王国軍がウマイヤ朝軍を破る。これによって、718年の東ローマ帝国の勝利に続いてイスラム帝国の進撃を止めることに成功。
737年
739年
- 西突厥滅亡。
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
730年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:03 UTC 版)
詳細は「730年代」を参照 730年東ローマ皇帝レオーン3世がイコン擁護派のコンスタンティノポリス総主教ゲルマノス1世を罷免する。 筑紫国大宰府にて大宰帥大伴旅人らにより「梅花の宴」が催される。 731年頃ベーダ・ヴェネラビリスが『イングランド教会史』を書き上げる。 732年トゥール・ポワティエ間の戦いで、カール・マルテル率いるフランク王国軍がウマイヤ朝軍を破る。この戦いと、718年の東ローマ帝国の勝利により、キリスト教世界はイスラム帝国の進撃を止めることに成功。 オルホン川流域のホショ・ツァイダムに東突厥のキュル・テギンの碑文が建てられる。 東ローマ皇帝レオーン3世がイリュリクムの裁治権をローマ教皇からコンスタンティノポリス総主教に移管する。 東ローマ皇帝レオーン3世の息子(後の皇帝コンスタンティノス5世)がハザール王女チチャク(エイレーネー)と結婚。 734年遣唐使留学生井真成36歳で長安で没する。その2005年4月に発見された墓誌には、玄宗皇帝から官位授与や「国号日本」も記録されている。「日本」表記の現存資料としては最古。 ボーン川の戦いで、フランク王国がフリースラント王国を征服。 735年 - オルホン川流域のホショ・ツァイダムに東突厥のビルゲ・カガンの碑文が建てられる。 737年 - 天平の疫病大流行により藤原四兄弟が相次いで死去、右大臣橘諸兄による政権が成立する。 738年唐が皮羅閣を雲南王に冊封し南詔が建国される。 唐の玄宗が翰林学士院を設置する。 キリグア王カック・ティリウが反乱を起こし、コパン王を斬首してマヤ地域の覇権を握る。 739年 - 行信により夢殿を中心とする法隆寺東院が建立される。
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