ビルゲ・カガンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > ビルゲ・カガンの意味・解説 

ビルゲ‐カガン【Bilgä Khaghan】

読み方:びるげかがん

[?〜734]中国唐代東突厥(とっけつ)の可汗(王)。在位716〜734。唐に対して妥協政策をとり、民族統一努めた暗殺された。その功績突厥碑文に残る。ビルゲハガン。→突厥

[補説] 「毗伽可汗」とも書く。


毘伽可汗

(ビルゲ・カガン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/24 21:25 UTC 版)

毘伽可汗呉音:びがかがん、漢音:ひきゃかがん、拼音:Pígā kĕhàn、683年 - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗阿史那骨咄禄の長男。姓は阿史那氏、名は默棘連(ぼくきょくれん)という。可汗号である毘伽可汗はビルゲ・カガン古テュルク語: - Bilgä qaγan)[1]の漢字表記名。

生涯

阿史那骨咄禄の子として生まれる。

阿史那骨咄禄が天授690年 - 692年)の初めに病死すると、その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の阿史那默啜が代わって可汗位に就いた。

開元4年(716年)6月、阿史那默啜が九姓(トクズ・オグズ)の抜曳固(抜野古、バイルク)部に殺されると、小殺(しょうシャド:官名)であった默棘連は後を継いで大可汗となり、毘伽可汗(ビルゲ・カガン)と号した。この即位に際して、毘伽可汗の弟である闕特勤(キュル・テギン:官名)は旧部を糾合し、阿史那默啜の子の小可汗及び諸弟を殺すなどして、毘伽可汗の即位に重要な役割を果たした。このとき毘伽可汗は闕特勤に位を譲ろうとしたが、闕特勤が固辞したため、彼を左賢王に封じ、東突厥軍の兵馬を統帥させることにした。また、默啜時の衙官であった暾欲谷(トニュクク英語版)を任用し、彼の娘である婆匐を可敦(カトゥン:皇后)とした。

ある時、降戸[2]の阿悉爛らが帰順してきたので、毘伽可汗はの北辺を侵そうとした。しかし、暾欲谷が「今はその時ではありません」と毘伽可汗を諫めた。また、毘伽可汗が城壁の修復と、仏教道教の寺院の建築を提案した時も、暾欲谷は「遊牧民がすることではありません」と諫めた。このようにして暾欲谷は毘伽可汗政権のブレーン的存在となり、毘伽可汗もまた彼の献策に従った。

開元8年(720年)9月、暾欲谷は甘州涼州を寇し、涼州都督の楊敬述を敗走させ、契苾部落を掠めて帰った。11月、突厥は涼州を寇し、人を殺して羊馬数万計を掠めて去った。開元9年(721年)秋、これに対し唐は抜悉蜜(バシュミル)・契丹の兵を発し、東突厥へ進軍し、毘伽可汗を捕えようとした。

開元14年(726年)11月、東突厥は遣使を送って唐に入朝した。

開元15年(727年)9月、毘伽可汗は大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)を唐へ入朝させた。閏月、突騎施(テュルギシュ)の蘇禄吐蕃の賛普は安西を包囲し、副大都護の趙頤貞はこれを撃って敗走させる。

開元22年(734年)、毘伽可汗は大臣の梅録啜に毒を盛られるが、すぐには死ななかったので、梅録啜を斬り、その一味を滅ぼしたうえで死んだ。国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。

妻子

可賀敦(カガトゥン:皇后)
  • 骨咄禄婆匐可敦…暾欲谷の娘
  • 大洛公主

毘伽可汗の碑文

毘伽可汗の死後、彼の甥であるヨルリグ・テギンによってオルホン河畔のホショ・ツァイダムに碑文が建てられた。これを『ビルゲ・カガン碑文』といい、その発見地から『ホショ・ツァイダム碑文』・『オルホン碑文』とも呼ばれる。

脚注

  1. ^ ビルゲ・カガンとは「賢明なる可汗」の意。
  2. ^ 咸亨年間(670年 - 674年)に、東突厥諸部落の来降附者の多くは、豊州・勝州・霊州・夏州・朔州・代州の六州に移住させられた。これを降戸と言う。

参考資料



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ビルゲ・カガン」の関連用語

ビルゲ・カガンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ビルゲ・カガンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの毘伽可汗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS