啓民可汗とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 啓民可汗の意味・解説 

啓民可汗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 08:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

啓民可汗(Jamï qaγan、呉音:けいみんかがん、漢音:けいびんかがん、拼音:Qǐmín kĕhàn、? - 609年)は、東突厥可汗沙鉢略可汗の子。啓民可汗というのは称号で、正しくは意利珍豆啓民可汗(El ïduk jamï qaγan、いりちんとうけいびんかがん:意智健の意)といい、姓は阿史那氏、名は染干(センガン)という。

生涯

北方にいた沙鉢略可汗の子の染干は突利可汗(テリス・カガン)[1]と号して、勝手にに遣使を送って求婚した。これにより大可汗である都藍可汗の怒りを買い、東突厥は二つの勢力に分かれてしまう。

開皇17年(597年)、突利可汗は安義公主を娶った。文帝は東突厥の離間を謀るため、突利可汗には待遇を良くした。

開皇19年(599年)、都藍可汗が達頭可汗と挙兵して突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺して蔚州に侵入した。夜、突利可汗は隋使の長孫晟とともにわずか5騎で隋に帰順した。10月、突利可汗は隋の文帝より意利珍豆啓民可汗の称号を拝命され、大利城を築く。この時、安義公主がすでに死去していたので、文帝は宗室の娘である義成公主を啓民可汗に娶らせた。12月、都藍可汗が部下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗(ボジャー・カガン)となって啓民可汗と対立した。しかし、隋と組んだ啓民可汗の方が常に優位となった。

仁寿元年(601年)、それまで啓民可汗に付属していた斛薛(こくせつ)などの諸部が叛いたので、文帝は詔で楊素を雲州道行軍元帥とし、啓民可汗を率いて北征させた。歩迦可汗はふたたび啓民可汗を攻めたが敗北し、吐谷渾に奔走した。

大業3年(607年)5月、啓民可汗は子の拓特勤(たくテギン)を遣わして隋に朝貢した。同年、啓民可汗の兄の子の毘黎伽特勤(ビルゲ・テギン)を遣わしふたたび来朝した。この後も、毎年数回は隋に遣使を送って朝貢した。

大業5年(609年)、啓民可汗は病死し、子の咄吉世を立てて、始畢可汗とした。

妻子

脚注

  1. ^ テリス・カガン(Tölis qaγan)とは、テリス(Tölis)すなわち東部を管轄する小可汗のことで、東面可汗のこと。これに対し西面可汗はタルドゥシュ・カガン(Tarduš qaγan)という。

参考資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「啓民可汗」の関連用語

啓民可汗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



啓民可汗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの啓民可汗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS