伊然可汗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 03:21 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動伊然可汗(いねんかがん、拼音:Yīrán kĕhàn、? - 734年)は、東突厥第二可汗国期の可汗。毘伽可汗の長男。姓は阿史那氏、名は不明。伊然可汗とは可汗号で、イネル・カガン(Inäl qaγan)を漢字表記したもの[1]。
生涯
開元22年(734年)、毘伽可汗は大臣の梅録啜(ブイルク・チュル)に毒殺されたので、国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。唐の玄宗は詔で宗正卿の李佺を弔問に赴かせるとともに、伊然可汗を冊立して碑廟を立てさせ、史官で起居舎人の李融にその碑文を書かせた[2]。
しかし、伊然可汗がまもなく病死したので、国人はその弟を立てて登利可汗(テングリ・カガン)とした。
妻
- 余塞匐
脚注
参考資料
固有名詞の分類
- 伊然可汗のページへのリンク