第一可汗国
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開皇2年(582年)冬、突厥は隋の征討を受け、大可汗の沙鉢略可汗(在位:581年 - 587年)は小可汗の阿波可汗・貪汗可汗らを率いて迎撃するが、敗走し、飢えと疫病に悩まされ、あえなく撤退した。この時、沙鉢略可汗は阿波可汗の気性が荒いのを危惧し、先に阿波可汗の領地へ向かいその部落を襲撃し、阿波可汗の母を殺した。これにより阿波可汗は還るところがなくなり、西の達頭可汗(タルドゥシュ・カガン)のもとへ亡命した。このことを聞いた達頭可汗は阿波可汗に10万の兵をつけて沙鉢略可汗を攻撃させた。このほかにも貪汗可汗や沙鉢略可汗の従弟の地勤察などが沙鉢略可汗から離反し、阿波可汗に附いた。これによって阿波可汗は突厥から分かれて西突厥を建国し、西域諸国を従えた。 こうして東西に分かれた突厥は互いに攻撃し合ったが、都藍可汗(在位:587年 - 599年)の時代になってようやく隋の文帝の仲裁で両者は和解することとなった。しかし、開皇17年(597年)、沙鉢略可汗の子である染干(センガン)は突利可汗(テリス・カガン)と号して、勝手に隋と関係をもったことから、大可汗である都藍可汗は激怒し、隋と国交を断絶し、たびたび辺境を侵すようになった。 開皇19年(599年)、隋は漢王の楊諒を元帥として都藍可汗を撃たせた。都藍可汗は達頭可汗と手を組んで、突利可汗を攻撃し、その兄弟子姪を殺した。突利可汗は長孫晟と隋に逃げ込んだ。6月、高熲・楊素は達頭可汗を撃ち、これを大破した。文帝は突利可汗を拝して啓民可汗(在位:599年 - 609年)とし、義成公主を娶らせた。なおも都藍可汗が啓民可汗を攻撃し、隋の辺境を侵すので、越国公楊素・行軍総管の韓僧寿・太平公史万歳・大将軍の姚辯の軍勢は都藍可汗を攻撃した。この年の12月、都藍可汗が部下に殺されると、達頭可汗は歩迦可汗となって啓民可汗と対立した。しかし、隋と組んだ啓民可汗の方が常に優位となった。 仁寿元年(601年)、それまで啓民可汗に付属していた鉄勒の斛薛(こくせつ)部などの諸部が叛いたので、文帝は詔で楊素を雲州道行軍元帥とし、啓民可汗を率いて北征させた。一方、歩迦可汗はふたたび啓民可汗を攻めたが敗北し、吐谷渾に奔走した。これにより啓民可汗は東突厥全土を掌握することとなり、以降、隋との関係も良好であった。 しかし、子の始畢可汗(在位:609年 - 619年)の代になると、東突厥は隋の衰えに乗じて反旗を翻した。大業11年(615年)8月、始畢可汗は数十万の騎馬軍団を率いて隋に入寇し、煬帝を雁門にて包囲した。煬帝は詔によって諸郡の兵を出動させ、東突厥軍を撤退させた。これ以降、東突厥は隋の北辺を荒らすようになり、二度と隋に朝貢することはなかった。また、隋末の動乱において、薛挙・竇建徳・王世充・劉武周・梁師都・李軌・高開道などの反抗者は皆東突厥に称臣し、始畢可汗によって称号を受けた。 武徳元年(618年)、東突厥の支援もあって中国で唐が建国すると、始畢可汗は骨咄禄特勤(クトゥルク・テギン)を遣わして入朝させた。高祖は太極殿で宴を催した。翌年(619年)2月、始畢可汗は賊軍の梁師都とともに唐への侵入略奪を謀ったが、始畢可汗が亡くなったため取りやめとなった。 始畢可汗の時代では小可汗の姿はほとんど無く、大可汗に次ぐ地位は設(シャド)となっていた。シャドの権力は小可汗より弱いため、始畢可汗が大可汗への権力集中をはかったものと思われる。しかし、それでも中央集権国家とは言い難く、他部族の部族長は頡利発(イルテベル:Iltäbär)や俟斤(イルキン:Irkin)といった称号をおびて、ある程度の地位を保っていた。そのため、中央からは吐屯(トゥドゥン:Tudun)という官を派遣して諸部族を監視すると共に税を徴収していた。 中国の混乱に乗じ、比較的優位に立っていた東突厥であったが、頡利可汗(在位:620年 - 630年)の代になり、内部分裂と鉄勒諸部の反乱、天変地異などによって東突厥は唐に降伏することとなった(630年3月)。
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