突利可汗とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 突利可汗の意味・解説 

突利可汗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 08:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

突利可汗(Tölis qaγan、呉音:どちりかがん、漢音:とつりかがん、拼音:Tūlì kĕhàn、602年 - 631年)は、東突厥の小可汗。始畢可汗の嫡子で頡利可汗の甥。突利可汗(テリス・カガン:Tölis qaγan)[1]というのは称号で、姓は阿史那氏、名は什鉢苾(しゅうはつひつ)という。

生涯

602年、阿史那咄吉世(始畢可汗)の嫡子として生まれる。

大業年間(605年 - 618年)、什鉢苾が数歳の時、父の始畢可汗はその東牙の兵を統領させ、号して泥歩設(でいほ・シャド:官名)とした。また、什鉢苾は隋の淮南公主を娶る。

武徳2年(619年)2月、始畢可汗が死去し、什鉢苾はまだ17歳と若かったので、国人たちは什鉢苾を泥歩設に任じ、幽州の北の東突厥東部に住まわせ、始畢可汗の弟の俟利弗設を立てて、これを処羅可汗とした。

武徳3年(620年)、叔父の頡利可汗が大可汗に即位すると、泥歩設什鉢苾は小可汗である突利可汗に封ぜられ、幽州の北に牙を建てた。

武徳6年(624年)8月、頡利可汗・突利可汗は国を挙げてに入寇したので、李世民がこれを征討し、頡利可汗・突利可汗は軍を引いた。その後、頡利可汗は突利可汗と夾畢特勤阿史那思摩を唐に派遣して、和睦を請願した。

突利可汗は東突厥東部に在って、・霫などの数十部を管轄したが、重税を課したため、諸部の多くはこれを怨むようになった。

貞観元年(627年)、突利可汗の重税により、薛延陀・奚・霫などが東突厥から離反して唐に帰順してしまう。頡利可汗はそのことに怒り、次弟の延陀設(えんだ・シャド:官名)に北征させ、突利可汗を捕らえて鞭打ちの刑に処した。

同年、陰山以北の薛延陀・回紇・抜野古(バイルク)などの諸部は相次いで反乱をおこし、その欲谷設を敗走させた。頡利可汗は突利可汗を遣わして、これを討伐させたが、敗北して軽騎で逃げ帰ったので、頡利可汗は怒り、突利可汗を十数日拘束した。突利可汗はこれにより怨みを抱き、内心で謀反を考えるようになった。

突利可汗は武徳(618年 - 626年)の時に太宗李世民と兄弟の契りを結んでおり、太宗とは親密な関係にあった。そこで貞観3年(629年)12月、突利可汗は郁射設・蔭奈特勤らとともに唐に投降した。

貞観4年(630年)、突利可汗は唐より右衛大将軍を授かり、食邑700の北平郡王に封ぜられた。また、順州都督となる。

貞観5年(631年)冬10月、唐に召されて入朝し、并州に至ったところで病死した。享年29。太宗はこれを哀しみ、詔で中書侍郎の岑文本にその碑文を書かせ、子の賀邏鶻(がらこつ)が後を継いだ。

妻子

    • 淮南公主
    • 阿史那賀邏鶻

脚注

  1. ^ テリス・カガン(Tölis qaγan)とは、テリス(Tölis)すなわち東部を管轄する小可汗のことで、東面可汗のこと。啓民可汗も即位前は突利可汗であった。これに対し西面可汗はタルドゥシュ・カガン(Tarduš qaγan)という。

参考資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「突利可汗」の関連用語

突利可汗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



突利可汗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの突利可汗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS