突厥碑文のアパル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 23:50 UTC 版)
8世紀に建てられた東突厥第二可汗国時代の碑文(突厥碑文)である『キュル・テギン碑文』と『ビルゲ・カガン碑文』に刻まれている民族名「(.R.P) Apar」はアヴァールに比定されている。ここでのアパルは始畢可汗の葬儀に参列した民族のひとつとして描かれている。 彼(始畢可汗)はこのように天に飛び去りました。哀悼者として、東から来たBöküli Čölüg el(高句麗人),Tabγač(中国人),Tüpüt(吐蕃人),Apar(アヴァール人),Purum(ローマ人),Qïrqïz(堅昆人),Üč Qurïqan(三姓クリカン人),Otuz Tatar(三十姓タタル人),Qïtaň(契丹人),Tatabi(奚人)、この多くの人々が来て悲嘆し悲しみました。とても有名な可汗とは彼でした。 そして、弟(処羅可汗)が可汗になりました。 — 『キュル・テギン碑文』第4行 Böküli(高句麗),Čölüg el,Tabγač(中国),Tüpüt(吐蕃),Apar Purum(アヴァール・ローマ),(Q)ïrqïz(堅昆),ÜčQurïqan(三姓クリカン),OtuzTatar(三十姓タタル),Qïtaň(契丹),Tatabï(奚)の使者が葬儀に来ました。多くの人々は偉大なカガンの上に来て悲嘆しました。彼は有名なカガンでした。その後、彼の弟がカガンになりました。その後、彼の息子。しかし、彼の弟は兄に似ていませんでした。 — 『ビルゲ・カガン碑文』第5行
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