民族名
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民族名(みんぞくめい)またはエスノニム(ethnonym)は民族集団の名前、呼称である。エスノニムには、外名=エクソニム(exonym)と内名 =エンドニム(endonym, autonym)がある。
例えば、ドイツ人の英語名称(外名)は「Germans」であるが、ドイツ語名称(内名)は「Deutschen」である。日本人の英語名称(外名)は「Japanese」であるが、日本語名称(内名)は「日本人」である。
人名研究の下位分野として、民族名の研究はethnonymy または ethnonymicsと呼ばれる。
エスノニム(民族名)は、民族にかかわらずある地域に住む住民全てを指す住民名とは、明確に区別すべきものである[1]。
脚注
- ^ Roberts, Michael (2017). "The Semantics of Demonyms in English". The Semantics of Nouns. Oxford: Oxford University Press. pp. 205–220.
民族名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:30 UTC 版)
ファイル:Lezgian people Leki.jpg レズギ人 レズギ人という民族名の由来に関しては、さらなる研究が求められている。とはいえ、大半の研究者はレズギ(Lezgi)の起源が古代のLegiおよび中世初期のLakziからであろうと考察している。 現代のレズギ人は、インド・ヨーロッパ語族の導入以前よりこの地域で話されてきた北東コーカサス語を話す。彼らは文化的にも言語的にも、ダゲスタン南部のアグール人や、少し遠いところではツァフル人、ルトゥル人、タバサラン人(レズギ人の北方隣人)と密接に関係している。もっと遠方ではあるが、アゼルバイジャン北部の少数民族であるジェク人、クリツ人、ラク人、シャダフ人、ブドゥフ人、キナルグ人とも関連がある。これらのグループがレズギ人と共に、レズギ語話者である先住民のサムール支族を形成する。 レズギ人は、青銅器時代にダゲスタン南部地域へ居住した人々からの子孫の一部だと信じられている。しかし、ヨーロッパとアジア全体人口への遺伝的つながりを示すパキスタンのブルショー人との著しい類似性など、過去4000年の間に中央アジアの人種とかなりの混合が起きたことを示すDNA上の証拠がいくつかある。 ロシア革命以前は、レズギ人は民族集団としての共通の自称を持っていなかった。彼らは村、地域、宗教、一族、または自由社会によって自分自身を呼びならわしていた。革命前は、レズギ人はロシア人から「Kyurintsy」「Akhtintsy」「Lezgintsy」と呼ばれていた。「レズギ人(Lezgin)」という民族名自体にもかなりの問題がある。ソビエト時代以前は「Lezgin」という言葉が様々な文脈で使われていた。現在のレズギ人として知られる人々だけを指す場合もあったが、他にはダゲスタン南部(レズギ人、アグール人、ルトゥル人、タバサラン人、ツァフル人)の様々な人々全てを指すこともあり、ダゲスタン南部およびアゼルバイジャン北部(クリツ人、ジェク人、キナルグ人、ブドゥフ人、シャダフ人)の人々全て、北東コーカサス語の話者全て、または北東コーカサス人(アヴァール人、ダルギン人、ラク人、チェチェン人、イングーシ人)のうち先住民のムスリム全てを指すこともあった。革命以前の作品を読む際には、「レズギ人」という民族名の意味する範囲が様々であることに注意する必要がある。 ロシア革命以前は、「レズギ人」が現在のロシアのダゲスタン共和国に居住する全ての民族に適用される用語であった。19世紀には、コーカサス地方のアヴァール人、ラク人ほか多数を含め、ナフ語派以外の北東コーカサス言語を話す全ての民族グループを指すものとして、この用語がより広い意味で使用された(ただし、北東コーカサス言語を話すヴェナフ人は「Circassians」と呼ばれた)。
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民族名
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詳細は「ルーシ人」、「コサック」、および「ホホール人」を参照 歴史上でウクライナ人は様々な民族名で知られている。9世紀から13世紀にかけてウクライナの地域がルーシと呼ばれたことから、中世前期以降この地域の住民はルーシ人(ルスィーヌィ)と呼ばれるようになった。また、14世紀より正教の聖職者の書簡ではウクライナを「小ロシア」と呼ぶ風習があり、17世紀以降ウクライナが正教のロシア・ツァーリ国に併合されると、19世紀までウクライナ人は小ロシア人(マロロースィ)と呼ばれていた。そのほかに、15世紀から18世紀末にかけてウクライナの住民の多くがコサックであったことから、コサック(コザクィー)がウクライナ人のことを意味した時代があった。 ウクライナという地名は12世紀後半から『ルーシ年代記』に見られるが、「ウクライナ人」という用語は16世紀まで普及していなかった。17世紀半ばにヘーチマン国家が成立すると、「ウクライナ人」は民族名として「ルーシ人」、「小ロシア人」、「コサック」の同義的に用いられるようになった。さらに、18世紀から19世紀にそれらの民族名はウクライナ出身の知識人の活動によって「ウクライナ人」という民族名で統一された。
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