民族史観に対する批判
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「朝鮮の歴史観」の記事における「民族史観に対する批判」の解説
朴チョルヒ(朝鮮語: 박철희、京仁教育大学)は、韓国の歴史教科書が過度に民族主義的に叙述されていると批判している。たとえば、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遊民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」「高麗前期に異民族が帰化した数字は23万8000人余りに達する。帰化した漢人は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。帰化した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国江南(中国語版)出身帰化人だが、これらの存在と文化的影響に対し教科書は沈黙している」。また、6年生1学期の社会教科書の「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗、百済、新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に対しては、「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べててみよう』と記し、旧石器、新石器、青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している。6学年1学期社会教科書39ページの「新しい王朝は領土拡張と国防強化に努力した(中略)特に世宗の時は豆満江と鴨緑江流域に入ってきて生きていた女真族を追い出して、この地域に四郡(朝鮮語版)と六鎮を設置して領土を広げた」との記述に対しては、「高麗時代に帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり、城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身で、この地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮の時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。しかしこういう女真族との友好的な内容は教科書で探せない」と女真族を朝鮮民族を困らせる報復の対象にだけ描写していると批判している。また、「小学校教科書には民族文化の優秀性を強調するために他民族を貶す記述も多く、特に、日本人は文化的に我々よりも劣等だと一貫して記述されている」と批判している。たとえば、小学校4年生2学期の道徳教科書66~67ページには、記者と外国人がキムチの味について話し合う場面があり、キムチの味を問う記者の質問に外国人は「はい、よく食べます。韓国のキムチはとてもおいしいです。日本のキムチは比較にもならないですね」と記述され、韓国のキムチの優秀性を紹介する為に、日本のキムチを見下すことは、他文化を無視すると同時に他文化に対する偏見を助長しやすいと批判している。また、4年生2学期、道徳教科書89ページには、「韓民族は強靭な所があります。中国歴代王朝、日本など周辺の国々がしつこく侵略を試みましたが、結局はすべて失敗してしまいました。(中略)例えば韓半島に韓民族ではなく日本や他の民族がいたらすぐに亡びたはずです」と、ここでは「日本人が半島に住んでいたら滅んでいた」とまで明記されている。 李鍾旭(朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「韓国の高校歴史教科書をみると、前書き1頁に『民族史』という言葉がなんと7回も登場しました。今日、民族史観の足かせから脱却する時期になりました。光復後の政治状況において、孫晋泰(朝鮮語版)は『武烈王が同民族(百済及び高句麗)を滅ぼすことを唐に要請したのは反民族行為』と主張しました。このような主張は、新羅人の立場からするととんでもない話です。百済の義慈王は洛東江以西を全て占領し、武烈王の娘と婿は百済軍に討ち取られます。北側からは高句麗が攻撃し、新羅の10余りの城を奪取しました。こうした状況において、新羅が『我々の土地を持っていけ』と撤退するでしょうか。その時代、三国相互は同民族だと認識もしていない時代です。歴史はその時代人の立場で眺めなければなりません。朝鮮戦争時、韓国が国連軍の支援を受けたことを『反民族行為』とみなすのと同様の詭弁です。今日、韓国の教育の第一線では、そのような歴史を韓国人が自ら子孫に教えています。朝鮮戦争を経験した韓国人なら、国家が民族より重要だという事実に気づくべきです」と批判している。 趙仁成(朝鮮語: 조인성、慶熙大学)は、1979年の韓国歴史教科書の年表と1982年の韓国歴史教科書の本文および年表が古朝鮮建国を紀元前2333年と叙述したことを「皇国史観による日本の国史教育を想起させる」とし、「非合理的な古代史認識をもつ韓国の国粋主義者は、韓国の学界は植民史観(朝鮮語版)に追従してきたと罵倒してきた。しかし、それはとんでもないことだ。むしろ非合理的な古代史認識をもつ韓国の国粋主義者が植民史観(朝鮮語版)の論理に従ってきた。檀君が紀元前2333年に建国したことは歴史的事実であるという主張は、神武起源を歴史的事実とした皇国史観と変わらない。満州が朝鮮人の祖先の活動舞台であったという理由で満州に対する縁故権を強調するのは『日鮮同祖論』と同じ論理だ。朝鮮半島から日本列島に移住した勢力が天皇家を創設し、日本古代文化をつくったという主張は韓国版『日鮮同祖論』『任那日本府』といえる。植民史観(朝鮮語版)の論理による非合理的な古代史認識をもつ韓国の国粋主義者の主張は、市民と学生に植民地主義・帝国主義的な歴史認識をもたせる危険性がある」と批判している。 水野俊平は自著の中で韓国の「情」に言及している。朝鮮半島史は一貫して外敵との戦いの歴史(周辺の強国に侵略や占領され、事大する歴史)であり、「偉大なる民族史」に憧れる心情は「理解できないことでもない」としている。また、韓国大衆の間で、「朝鮮半島史が日帝や親日派により不当に矮小化された」と信じられている為、「植民地史観から歴史を回復(復元)する」という名目で行われる主張が非常に受け入れられやすく、正統派の歴史学者が民族史観に異議を唱えにくい状況になってしまっていると分析している。 古朝鮮の領土について、在野の歴史学界(大学教授でない歴史学者からなる歴史学界)は、「大古朝鮮」を提示しており、古朝鮮の勢力範囲を中国北京の東側と内モンゴルの南側に位置した遼西地域まで広げ、「国土は解放されたが、歴史の解放はまだだ」と主張しており、申采浩、鄭寅普、李址麟、尹乃鉉(朝鮮語版)らが在野の歴史学界の論理を後押ししている。一方、主流の歴史学界(大学教授からなる)は、在野の歴史学界の主張は「偉大な上古史」の幻想を植えつける恐れがあると批判しており、古朝鮮の勢力範囲を「小古朝鮮」としており、学術誌『歴史批評』2016年春・夏号で、ソウル大学校、延世大学校、成均館大学校などの30代から40代の6人の若手朝鮮史研究者が、在野の歴史学界の古代史解釈を批判した論文を寄稿し、「在野の歴史学者の主張は歴史的考証もきちんとなされていない状態で、そこに民族主義という名の下、一部の国会議員や進歩的知識人が呼応している」として、「サイバー歴史学」「歴史ファシズム」「いんちき歴史学」と罵倒している。 李栄薫は、韓国の民族史観を以下のように批判している。 ある人は白頭山を天下一の名声高い中国の崑崙山の脈を正統に受け継ぐ山であると言いました。また別の人は白頭山の上から朝鮮領を見下ろし、箕子の国がささやかに広がっていると詠いました。このように李朝時代の白頭山は、性理学の自然観と歴史観とを象徴する山でした。李朝の性理学者たちは、朝鮮の文明は古代中国の聖人である箕子が東遷し建てた箕子朝鮮から始まったと信じていました。箕子朝鮮の最後の王である準王が南下し、馬韓に吸収され、その馬韓が新羅に吸収されたのですから、朝鮮の歴史の伝統が、箕子朝鮮から馬韓へ、新羅へ、高麗へ、そして李氏朝鮮へ受け継がれたというのです。李朝の歴史学はこのような箕子正統説を信奉しました。李朝時代の人々が檀君を知らなかったわけではありませんが、ぞんざいに扱い、また脇に放っておいたのです。十八世紀になると若干の変化が生じて、檀君の古朝鮮が朝鮮史の先頭を飾るようになりますが、それでも文明の正統は箕子朝鮮から出発したという既存の歴史観には変わりがありませんでした。先に見たように、白頭山をめぐり、これを崑崙山の嫡子であるとしたり、李朝を「箕子の国」であると言ったのも、すべてはそのような歴史観によるものです。そのように、李朝時代の歴史観が中国を中心とするものだったとすれば、その時代に今日と同様な民族意識が存在していたと考えるのは難しいでしょう。これに関連しては、もう一つ例をあげましょう。十五世紀の初め、世宗年間のことです。「箕子正統説」がちょうど成立した時期にあたります。当時の両班学者たちがなぜ箕子正統説を導入したのか、その理由を考えると以下のとおりです。当時は人口の三〜四割が奴婢という賤しい身分でありました。両班たちは自分たちが奴婢を思うままに支配してもよい根拠がどこにあるのかという問いにぶつかります。そこで、聖人である箕子が真っ暗な東の蛮地に来て、八条からなる禁則を下したが、その中に盗みを犯した人間を奴婢とする法があるじゃないか。だから奴婢というのはもともと聖人の教えに従わない野蛮人であり、我ら両班は聖人の教えを悟った文明人である。だから、両班が奴婢を支配するのは世の中の風俗を正そうとした聖人の思し召しである。このような論理が生み出されたのです。箕子正統説が出現する現実的な理由とはそういうものでした。そのような社会で互いに異なる身分の人間たちが、自分たちは一つの血筋でつながった運命共同体であるという意識を分かち合えたのでしょうか。私はおよそありえない話であると思っています。 — 李栄薫 韓洪九は、韓国の民族史観を以下のように批判している。 韓国では、単一民族という神話が広く信じられてきた。1960年代、70年代に比べいくぶん減ってはきたものの、社会の成員の皆が檀君祖父様の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に、檀君祖父様という一人の人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか。答えは「いいえ」です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君が治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々の渡来から、高麗初期の渤海遺民の集団移住にいたるまで、我が国の歴史において大量に人々が流入した事例は数多く見られます。一方、契丹・モンゴル・日本・満州からの大規模な侵入と朝鮮戦争の残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば、檀君祖父様という一人の人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つの神話に過ぎないのです。(中略)いろいろな姓氏の族譜を見ても、祖先が中国から渡来したと主張する帰化姓氏が少なくありません。また韓国の代表的な土着の姓氏であるである金氏や朴氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分の族譜が初めて編纂された朝鮮時代中期や後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識は別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制が維持されていた伝統社会では、奴婢ら賤民と支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識が存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思が初めて登場したのは、わが国の歴史においていくらひいき目に見ても大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません。(中略)国が危機に直面したとき、檀君を掲げて民族の求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者の知恵でした。 — 韓洪九 李鮮馥(朝鮮語: 이선복、英語: Yi Seon-bok、ソウル大学)は、民族史観を以下のように批判している。 「5000年単一民族」が科学的・歴史的な事実ではないと言うと、激昂する人々が周囲には多い。しかし各種資料が明示するように、われわれの姓氏の中には歴史時代を通して中国や日本・ベトナムをはじめ遠近各国から帰化した人々を祖先とする事例がひとつやふたつではない。もしわれわれが「5000年単一民族」を額面どおりに信じるのならば、姓氏の祖先がもともと韓半島にいなかったことが明らかな数多くの現代韓国人たちを、今後は韓国人とみなしてはならないだろう。(中略)われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない。 — 李鮮馥
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