民族史観に対する批判とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 民族史観に対する批判の意味・解説 

民族史観に対する批判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 13:50 UTC 版)

朝鮮の歴史観」の記事における「民族史観に対する批判」の解説

チョルヒ(朝鮮語: 박철희、京仁教育大学)は、韓国歴史教科書過度に民族主義的叙述されていると批判している。たとえば、「高句麗渤海多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗領土拡大異民族との併合過程であり、渤海高句麗遺民靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海高句麗遊民靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対す内容全くない渤海高句麗との連続線上だけで扱われている」「高麗前期異民族帰化した数字238000余りに達する。帰化した漢人国際情勢明るく文芸にたけていて官僚にたくさん進出した帰化した渤海人契丹との戦争参加して大き功績立てた崔茂宣火薬製造技術伝えた人物の元も中国江南中国語版出身帰化人だが、これらの存在文化的影響対し教科書沈黙している」。また、6年生1学期社会教科書の「一つ団結した同胞」の部分私たち同胞最初の国・古朝鮮建てて高句麗百済新羅続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に対しては、「教科書では、『古朝鮮立てられる前の私たち先祖の生活がどのようだったのか調べててみよう』と記し旧石器新石器青銅器時代説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統民族がこの地域暮して来たかのように記述されている」と批判している。6学年1学期社会教科書39ページの「新し王朝領土拡張国防強化努力した中略)特に世宗の時は豆満江鴨緑江流域入ってきて生きていた女真族追い出して、この地域に四郡(朝鮮語版)と六鎮設置して領土広げた」との記述に対しては、「高麗時代帰化した女真族北方情勢情報提供したり、城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮建国した李成桂東北面出身で、この地域女真族自身支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身女真族指導者として同北方面女真族朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割担当した李氏朝鮮時代、同北方面領域領土拡張可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。しかしこういう女真族との友好的な内容教科書探せない」と女真族朝鮮民族困らせる報復対象にだけ描写していると批判している。また、小学校教科書には民族文化の優秀性を強調するために他民族貶す記述多く、特に、日本人文化的に我々よりも劣等だ一貫して記述されている」と批判している。たとえば、小学校4年生2学期道徳教科書6667ページには、記者外国人キムチの味について話し合う場面があり、キムチの味を問う記者質問外国人は「はい、よく食べます韓国キムチはとてもおいしいです日本キムチ比較にもならないですね」と記述され韓国キムチの優秀性を紹介する為に日本キムチ見下すことは、他文化無視する同時に文化対す偏見助長しやすいと批判している。また、4年生2学期道徳教科書89ページには、「韓民族強靭な所があります中国歴代王朝、日本など周辺国々しつこく侵略試みましたが、結局はすべて失敗してしまいました。(中略例え韓半島韓民族ではなく日本や他の民族がいたらすぐに亡びたはずです」と、ここでは「日本人半島住んでいたら滅んでいた」とまで明記されている。 李鍾旭朝鮮語: 이종욱、西江大学)は、「韓国高校歴史教科書をみると、前書き1頁に『民族史』という言葉がなんと7回も登場しました今日民族史観の足かせから脱却する時期なりました光復後政治状況において、孫晋泰(朝鮮語版)は『武烈王が同民族百済及び高句麗)を滅ぼすことを唐に要請したのは反民族行為』と主張しましたこのような主張は、新羅人立場からするととんでもない話です。百済義慈王洛東江以西全て占領し武烈王の娘と婿は百済軍に討ち取られます。北側からは高句麗攻撃し新羅10余りの城を奪取しました。こうした状況において、新羅が『我々の土地持っていけ』と撤退するでしょうかその時代、三国相互は同民族だと認識もしていない時代です。歴史その時代人立場眺めなければなりません。朝鮮戦争時韓国国連軍支援受けたことを『反民族行為』とみなすのと同様の詭弁です。今日韓国の教育第一線では、そのような歴史韓国人が自ら子孫教えてます。朝鮮戦争経験した韓国人なら、国家民族より重要だという事実に気づくべきです」と批判している。 趙仁成(朝鮮語: 조인성、慶熙大学)は、1979年韓国歴史教科書年表1982年韓国歴史教科書本文および年表古朝鮮建国紀元前2333年叙述したことを「皇国史観による日本国史教育想起させる」とし、「非合理的古代史認識をもつ韓国国粋主義者は、韓国学界植民史観朝鮮語版)に追従してきたと罵倒してきた。しかし、それはとんでもないことだ。むしろ非合理的古代史認識をもつ韓国国粋主義者植民史観朝鮮語版)の論理に従ってきた。檀君紀元前2333年建国したことは歴史的事実であるという主張は、神武起源歴史的事実とした皇国史観変わらない満州朝鮮人祖先活動舞台であったという理由満州対す縁故強調するのは『日鮮同祖論』と同じ論理だ。朝鮮半島から日本列島移住した勢力天皇家創設し日本古代文化つくったという主張韓国版日鮮同祖論』『任那日本府といえる植民史観朝鮮語版)の論理による非合理的古代史認識をもつ韓国国粋主義者主張は、市民学生植民地主義・帝国主義的な歴史認識もたせる危険性がある」と批判している。 水野俊平自著の中で韓国の「情」に言及している。朝鮮半島史は一貫して外敵との戦い歴史周辺強国侵略占領され事大する歴史)であり、「偉大な民族史」に憧れ心情は「理解できないことでもない」としている。また、韓国大衆の間で、「朝鮮半島史が日帝親日派により不当に矮小化された」と信じられている為、「植民地史観から歴史回復復元)する」という名目行われる主張が非常に受け入れられやすく、正統派歴史学者民族史観に異議唱えにくい状況になってしまっていると分析している。 古朝鮮領土について、在野歴史学界(大学教授でない歴史学者からなる歴史学界)は、「大古朝鮮」を提示しており、古朝鮮勢力範囲中国北京東側内モンゴル南側位置した遼西地域まで広げ、「国土解放されたが、歴史解放はまだだ」と主張しており、申采浩鄭寅普址麟、尹乃鉉朝鮮語版)らが在野歴史学界の論理後押ししている。一方主流歴史学界(大学教授からなる)は、在野歴史学界の主張は「偉大な上古史」の幻想植えつける恐れがある批判しており、古朝鮮勢力範囲を「小古朝鮮」としており、学術誌歴史批評2016年春・夏号で、ソウル大学校延世大学校成均館大学校などの30代から40代の6人の若手朝鮮史研究者が、在野歴史学界の古代史解釈批判した論文寄稿し、「在野歴史学者主張歴史的考証もきちんとなされていない状態で、そこに民族主義という名の下、一部国会議員進歩的知識人呼応している」として、「サイバー歴史学」「歴史ファシズム」「いんちき歴史学」と罵倒している。 李栄薫は、韓国民族史観を以下のように批判している。 ある人は白頭山天下一名声高い中国崑崙山の脈を正統受け継ぐ山であると言いました。また別の人は白頭山の上から朝鮮領を見下ろし箕子の国がささやか広がっていると詠いましたこのように李朝時代白頭山は、性理学自然観歴史観とを象徴する山でした。李朝性理学者たちは、朝鮮文明古代中国聖人である箕子東遷建てた箕子朝鮮から始まった信じていました箕子朝鮮最後の王である準王南下し馬韓吸収され、その馬韓新羅吸収されたのですから、朝鮮の歴史伝統が、箕子朝鮮から馬韓へ、新羅へ、高麗へ、そして李氏朝鮮受け継がれたというのです。李朝歴史学このような箕子正統説を信奉しました。李朝時代人々檀君知らなかったわけではありませんが、ぞんざいに扱い、また脇に放っておいたのです。十八世紀になると若干変化生じて檀君古朝鮮朝鮮史先頭を飾るようになりますが、それでも文明正統箕子朝鮮から出発したという既存歴史観には変わりがありませんでした先に見たように、白頭山をめぐり、これを崑崙山嫡子であるとしたり、李朝を「箕子の国」であると言ったのも、すべてはそのような歴史観よるものです。そのように李朝時代歴史観中国中心とするものだったとすればその時代に今日同様な民族意識存在していたと考えるのは難しでしょう。これに関連しては、もう一つ例をあげましょう十五世紀初め世宗年間のことです。「箕子正統説」がちょう成立した時期にあたります。当時両班学者たちがなぜ箕子正統説を導入したのか、その理由考えると以下のとおりです。当時人口の三〜四割が奴婢という賤しい身分ありました両班たちは自分たちが奴婢思うまま支配してもよい根拠がどこにあるのかという問いぶつかります。そこで、聖人である箕子真っ暗な東の蛮地来て八条からなる禁則下したが、その中に盗み犯した人間奴婢とする法があるじゃないか。だから奴婢というのはもともと聖人教え従わない野蛮人であり、我ら両班聖人教え悟った文明人である。だから、両班奴婢支配するのは世の中風俗正そうとした聖人思し召しである。このような論理生み出されたのです。箕子正統説が出現する現実的な理由とはそういうものでした。そのような社会互いに異な身分人間たちが、自分たちは一つ血筋つながった運命共同体であるという意識分かち合えのでしょうか。私はおよそありえない話であると思ってます。 — 李栄薫 韓洪九は、韓国民族史観を以下のように批判している。 韓国では、単一民族という神話広く信じられてきた。1960年代70年代比べいくぶん減ってはきたものの、社会成員の皆が檀君祖父の子孫だというのは、いまでもよく耳にする話である。われわれは本当に檀君祖父様という一人人物の子孫として血縁的につながった単一民族なのだろうか答えは「いいえ」です。檀君の父桓雄とともに朝鮮半島にやって来た3000人の集団や、加えて檀君治めていた民人たちの皆が皆、子をなさなかったわけはないのですから。彼らの子孫はどこに行ってしまったのでしょうか。箕子の子孫を名乗る人々渡来から、高麗初期渤海遺民集団移住にいたるまで、我が国歴史において大量に人々流入した事例数多く見られます。一方契丹モンゴル日本満州からの大規模な侵入朝鮮戦争残した傷跡もまた無視することはできません。こうしたことを考えれば檀君祖父様という一人人物の先祖から始まったのだとする単一民族意識は、一つ神話に過ぎないのです。(中略いろいろな姓氏族譜見ても、祖先中国から渡来した主張する帰化姓氏少なくありません。また韓国代表的な土着の姓氏であるである金氏氏を見ても、その始祖は卵から生まれたとされ、檀君の子孫を名乗ってはいません。これは、大部分族譜初め編纂された朝鮮時代中期後期までは、少なくとも檀君祖父様という共通の祖先をいただく単一民族であるという意識別段なかったという証拠です。また、厳格な身分制維持されていた伝統社会では、奴婢賤民支配層がともに同じ祖先の子孫だという意識存在する余地はないのです。共通の祖先から枝分かれした単一民族という意思初め登場したのは、わが国歴史においていくらひいき目見て大韓帝国時代よりさかのぼることはあり得ません。(中略)国が危機直面したとき、檀君掲げて民族求心点としたのは、大韓帝国時代から日帝時代初期にかけての進歩的民族主義者知恵でした。 — 韓洪九 鮮馥(朝鮮語: 이선복、英語: Yi Seon-bok、ソウル大学)は、民族史観を以下のように批判している。 「5000年単一民族」が科学的歴史的な事実ではないと言うと激昂する人々周囲には多い。しかし各種資料明示するように、われわれの姓氏中には歴史時代通して中国日本ベトナムをはじめ遠近各国から帰化した人々祖先とする事例ひとつやふたつではない。もしわれわれが「5000年単一民族」を額面どおり信じるのならば、姓氏祖先がもともと韓半島にいなかったことが明らかな数多く現代韓国人たちを、今後韓国人みなしてならないだろう。(中略)われわれはよく、われわれ自身檀君の子孫と称し5000年悠久歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉額面どおり受け入れれば韓民族5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成されそのとき完成され実体変化することなくそのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識民族意識鼓吹必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠立脚した科学的歴史的な事実にはなりえない。 — 鮮馥

※この「民族史観に対する批判」の解説は、「朝鮮の歴史観」の解説の一部です。
「民族史観に対する批判」を含む「朝鮮の歴史観」の記事については、「朝鮮の歴史観」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「民族史観に対する批判」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「民族史観に対する批判」の関連用語

民族史観に対する批判のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



民族史観に対する批判のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの朝鮮の歴史観 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS