植民地主義・帝国主義
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19世紀の欧米各国には勢力均衡が存在したが、その他の地域に対しては武力を背景に自由貿易を要求する帝国主義政策が進められた。宗主国は植民地から自国向けの農産物や鉱物を輸入し、工業生産物を植民地へ輸出した。そのため植民地には自由貿易を強制した。当初は独占権をもつ企業が各植民地で経営し、やがて現地住民との契約という形をとった。植民地以外の国に対しては、不平等条約によって自由貿易を要求していった。オスマン帝国とヨーロッパ諸国の間で締結された条約は、カピチュレーションによる治外法権や、協定関税などの不平等な面があり、中国や日本が締結することになる条約の原型ともいわれている。 植民地とならずに独立を保った国も、欧米の貿易に組み込まれた。日本では鎖国体制にあった江戸幕府が開国を選び、日米和親条約(1854年)をはじめとして各国と条約が結ばれた。日本の開国後の貿易による利益はGDPの約5%から9%に達したといわれ、自由貿易の利益の実例にあげられる。開国後の日本は世界的にも貿易の拡大ペースが早かった。タイは欧米諸国との条約で王室の貿易独占をほぼ廃止して自由貿易に加わり、治外法権や港の交易圏を認めつつ、国家主権の維持につとめた。これらの国々が欧米諸国と結んだ条約は関税自主権がない不平等条約だったため、条約の変更が課題となった。中南米諸国が独立した際、独立運動の時期から影響を増していたイギリスは諸国に貿易自由化を要求し、関税自主権のない状態で1810年から1825年にかけてイギリスと中南米の貿易額は10倍となった。中南米の政治の安定にともなって1870年代以降に外資進出が進み、モノカルチャーの貿易が増えた。 アフリカでは、ベルリン会議(1884年)でアフリカ分割が定められ、アフリカ全土がヨーロッパの7カ国によって植民地化された。 東南アジアは4カ国によって分割されたが、植民地は相互でも貿易をするようになり、アジア経済圏における国際分業が成立した。イギリスは自由貿易の拠点としてシンガポールを建設し、商品製造や強制労働の必要がない中継貿易の制度を整える。シンガポールはインド植民地からのアヘンを中国(清)へ送る貿易が特に活発であり、東インド会社のような独占の保護を受けていない民間業者が集まって発展し、やがてシンガポールと香港はアジアの金融センターにもなった。 東アジアには、イギリスや日本の他にフランス、アメリカ、ロシアも門戸開放を求めて進出した。日本は朝鮮王朝と不平等条約の日朝修好条規(1876年)を結んで経済進出をする。 19世紀に自由貿易が強制された地域では、当時の制度がその後の社会に影響を及ぼす場合がある。イギリスによって植民地化されたイギリス領インド帝国は、自由貿易を強制されて1920年代まで関税収入がなかった。財源を確保するために逆進性の高い地税や独占事業である塩税をかけ、住民への負担となった。イギリスがインドに地税制度を導入した際、ザミンダーリー制度が行われた地域は不平等レベルが高く、他の制度の地域と比べて現在でも公共財の普及が遅れており、識字率や政治への参加率が低く、農業技術の導入が遅れたため農業の生産性が低くなった。
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植民地主義・帝国主義
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自由貿易の輸出の拡大・海外権益の確保が、帝国主義の動きを強め国家の対立を激化させているとする説がある。例として、(1) 植民地時代に宗主国が不利な条件で植民地に取引を強要し、搾取した。(2) 欧米は自国が輸出する製品に関しては貿易の自由化を進めた一方で、発展途上国の競合する製品に関しては保護政策をとり続けた、などがあげられる。19世紀のイギリスは自由貿易をめぐって他国から批判され、自由貿易を進めるのは経済力を背景とした利己的な政策である、イギリスはいち早く工業化を達成した地位を利用して他国を搾取している、などの意見があった。
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