大英帝国支配下のアデン - 共産主義への傾倒
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「ポール・ニザン」の記事における「大英帝国支配下のアデン - 共産主義への傾倒」の解説
1926年9月、ニザンは突然、学業も執筆活動も中断し、政治家アントナン・ベス(フランス語版)の子息の家庭教師として、1839年以来大英帝国の支配下にあったアデン(アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市)に向かった。1927年5月まで同地に滞在することになるが、ここで目にしたのは期待した異国情緒とは裏腹に、植民者の資本主義的搾取に苦しむ現地人の悲惨さであり、植民地というブルジョワ社会の縮図であった。 帰国後、彼は1931年に発表された抗議文書(パンフレ、Pamphlet)『アデン アラビア』で、こうした植民地アデンの現状と植民地主義(帝国主義)・資本主義・ブルジョワジー(ブルジョワ教育、ブルジョワ文化、ブルジョワ哲学)、ホモ・エコノミクス、人間による人間の疎外を厳しく糾弾した。 こうした経験から共産主義への傾倒を深めたニザンは、1927年に帰国すると共産党に入党した。『アデン アラビア』は「ぼくは20歳だった。それが人生で最も美しい時代とは誰にも言わせない」という、しばしば引用される有名な一文で始まる。かつて絶望や孤独に苛まれ、極右思想、信仰、異文化・非西欧世界に解放の糸口を求めた彼が、「私は絶望している。我々皆が絶望しているからだ」、この社会は「絶望した人間の社会だ」という認識に至り、解放の糸口は、こうした「人間社会を丸ごと受け止め、人間らしさを取り戻す生を得る」こと、そしてそのために必要なのは「革命」という共通の目標に向かって「連帯」すること、社会的責任を負った人間として行動することにあると確信したのである。 同じ1927年に、高等師範学校のパーティーで知り合い、アデンから頻繁に手紙を書き送っていたアンリエット・アルファン(Henriette Alphen、1907-1993)と結婚し、サルトルとアロンが立会人を務めた。歴史学者・人口統計学者のエマニュエル・トッドは、翌1928年に生まれた第一子アンヌ=マリーの子である。 同1928年に高等研究学位(Diplôme d'études supérieures)を取得し、1929年に24歳で哲学のアグレガシオン(大学教授資格)を取得した。前年落第したサルトルが主席、21歳のボーヴォワールが次席であった。
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