植民地主義の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:17 UTC 版)
こうした植民地主義の体制が綻びを見せるのは第二次世界大戦後のことである。大戦に勝利した連合国側の列強も戦争によって非常に疲弊した状態となっており、植民地を押さえつける力は失われつつあった。また連合国側によって設置された国際連合は旧連盟の委任統治政策を引き継ぎ、旧委任統治領を改めて信託統治領として施政権者に信託したものの、新たに設置された国際連合信託統治理事会は旧連盟の委任統治委員会に比べ権限が強化されており、また信託統治領の自治および独立を目指すよう施政権者に義務を課していた。こうして脱植民地化の動きが加速していった。1945年の大戦終結以降数年の間に、インドをはじめとして南アジアや東南アジアで多くの植民地が独立していった。次いで、アフリカ大陸でも急速に独立国家が増加していった。1956年のガーナ独立を皮切りに、1960年にはフランス植民地13か国を中心とした17カ国が一気に独立を果たし、アフリカの年と呼ばれるようになった。1960年12月14日には国際連合総会で植民地独立付与宣言が採択され、植民地主義への反対と脱植民地化の推進が明確にうたわれた。1960年代後半になると、ポルトガルを除く欧州諸国はほぼアフリカ大陸から撤退していた。のこるポルトガルも1974年のカーネーション革命によって植民地の独立容認に転換し、1975年にはポルトガル領植民地のほぼすべてが独立を果たした。1970年代に入ると、いまだ植民地の残っていたオセアニアおよびペルシャ湾岸、小アンティル諸島においても独立が急速に進んだ。信託統治領の独立も進み、1994年に最後の信託統治領であったパラオが独立することで信託統治領は消滅した。2017年時点で国際連合非自治地域リストに掲載されている非独立地域は17か所に過ぎず、しかも西サハラを除く各植民地は人口及び面積が小さく、独立が困難なところがほとんどである。
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