植民地体制下の近代化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 01:40 UTC 版)
「フランス領マダガスカル」の記事における「植民地体制下の近代化」の解説
植民地支配下でプランテーションが開かれ、さまざまな輸出用作物の生産が行われた。1896年に奴隷制が廃止され、およそ50万人の奴隷が解放されたが、多くは解放前の主人の家に使用人として残った。植民地政府が置かれたアンタナナリヴには、広い大通りと広場が建設され、王宮を含む建物群は博物館になった。メリナ王国による学校建設がまだ及んでいなかった地方や沿岸部を中心に、学校建設が追加された。6歳から13歳の子どもに教育を受けさせることが義務となり、学校では基本的にフランス語と実践的な技術が教えられた。SMOTIGという強制労働制度がフランス植民地政府により創設され、沿岸部の町とアンタナナリヴをつなぐ鉄道や道路の建設の際に利用された。なお、マダガスカルの伝統的な家屋は先祖の住処である西に戸口を開くものであったが、フランス植民地政府は戸口を幹線道路を向くように命令した。文明観において社会進化論が支配的であった当時の西欧では、「未開」の後進地域に文明を移出する「文明化の使命」があると観念され、文化の一方的な押しつけが何の疑問もなく行われた。 20世紀に入ると官工や農業生産者の不足から、アジア地域などから労働期間を限定した出稼ぎ外国人労働者を導入した。1901年04月、在清フランス領事がフランス商人からの要望に応じ、清国の福建洋務局や福州按察司と約定書を締結、福建省において約1500人の中国人労働者が募集され、3年間の出稼ぎ労働が行われた。 第一次世界大戦には、マダガスカル出身の兵士たちもフランスのために戦った。この時期には遠く日本の明治維新及び日露戦争における日本の勝利の情報が入ってきており、これに触発されて民族主義運動が高まった。フランス植民地当局はマダガスカル語新聞の検閲を強め、大戦中の1915年に抗仏秘密結社ヴィ・ヴァトゥ・サケリカを摘発した。この事件はフランス植民地帝国を震撼させ、硬軟双方の手管を用いた独立運動への抑圧と、島内の民族手段の対立を煽る統治政策の実施へと植民地当局を駆り立てることになった。 1930年代にはドイツの政治思想家が、マダガスカルをポーランドや他のヨーロッパ諸地域に住むユダヤ人たちを将来移住させる際の移住先とする「マダガスカル計画」を練り始めた。第二次世界大戦中は、マダガスカルはヴィシー政府側につき、ヴィシー政府軍とそれを支援する大日本帝国海軍、イギリス軍との間で戦闘が起き、日本軍の潜水艦の攻撃でイギリス軍戦艦が大破し、日本軍兵士とイギリス軍兵士が地上戦を繰り広げるなど、マダガスカルは戦場になった(マダガスカルの戦い)。 第二次世界大戦中に宗主国フランスがドイツに占領されたことは、マダガスカルの植民地政府の威信に曇りをもたらす出来事であり、1947年に起きた反フランス植民地支配抵抗運動の遠因ともなった。この運動はフランスが1956年に海外植民地改革法を制定するきっかけとなり、マダガスカルは平和裏に独立へと移行することとなった。1958年10月14日に、フランス共同体に属する一自治国家として、マダガスカル共和国の樹立が宣言された。地方政府の時代は1959年憲法の発効により終わり、1960年6月26日に完全な独立を達成した。
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