植民地化から解放戦争まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 19:36 UTC 版)
「コロンビアの歴史」の記事における「植民地化から解放戦争まで」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 西暦1500年に、ロドリゴとバスティダスに率いられたスペイン人探検家がカリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年、クリストバル・コロン( クリストファー・コロンブス)はカリブ海とチョコ(Choco)の西岸を航行する。 1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1513年、ヨーロッパ人は太平洋を初めて発見し、Mar del Surすなわち「南の海」と名付けると、続いてペルーとチリに到達する。 1510年11月にサンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(Santa María la Antigua del Darién) が今のチョコ県に建設され、南アメリカ発のヨーロッパ人による恒久的な入植地となった。その地域の先住民族は、チブチャ系(Chibchan) とカリブ系(Karib,今のカリブ族)が多数を占めていたが、最大の王国だったムイスカ族のバカタ王国が征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダにより征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降スペイン人の統治の拠点となる。 スペイン人はアメリカ征服後、どの地域でもそうしたように16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足によりいったん廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を置いた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍や海賊の攻撃は続き、現在も城壁が残っている。 1781年ソコーロで増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、結局は増税の実施が見送られてこの反乱は終結した。
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