植民地化と所有権の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:16 UTC 版)
「ウェッジ (デラウェア州)」の記事における「植民地化と所有権の確立」の解説
1632年の勅許によるメリーランド植民地の成立に際して、その南北の境界は現在のデルマーバ半島のうち、ワトキンズポイントを通る緯線と北緯40度線とされ、これが当時のカルバート家に払い下げられた。この領土には、デラウェア湾口に小さなオランダ人入植地(ツバーネンデール、Zwaanendael)が既に存在しており、後年にはデラウェア川やデラウェア湾沿いにニュースウェーデンおよびその後それを占領して成立したニューネーデルランドと呼ばれたオランダ人入植地が点在するようになった。カルバート家は表向きにはこれら入植地は無くしたいと述べてはいたが、実際には英国王室の外交政策にも考慮する必要があり、この当時はまだ軍隊を差し向けてまで事を荒立てることはしなかった。 1664年になり、当時の英国王チャールズ2世の弟であるヨーク公(後の英国王ジェームズ2世)はこれら他国の植民地管轄当局者らを武力で追放したが、この最中に英国王室はニューキャッスル周辺とデラウェア湾北側の領土を分割して新しい植民地を作ることを決定した。 1681年にはウィリアム・ペンに対する勅許によりペンシルバニアが払い下げられた。この勅許ではデラウェア川の西側でかつ北緯40度線の北側がその範囲とするが、ニューキャッスルを中心とした12マイルの範囲は除外するものとされた。このことでもわかるように、当時のこの一帯の地図は相当いい加減なもので、「ニューキャッスルを中心として12マイル」の範囲は北緯40度線の北側に突出していると認識されていた。だが実際のニューキャッスルは北緯40度線よりおよそ40キロメートル南側に位置しており、初めから除外する必要などなかった。ペン家はその後ヨーク公ジェームズから現在のデラウェア州に相当する土地も払い下げを受けることができたが、そこを当時彼らは低地三郡 (Three Lower Counties) と呼び、明確にペンシルバニアの一部として扱った。
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