植民地化の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 00:59 UTC 版)
「ムハンマド・アリー朝」の記事における「植民地化の時代」の解説
国際貿易に市場が開放されても、エジプトは豊かな農業生産力によって莫大な産出を誇る綿花が経済を支え、エジプト政府主導による近代化改革路線は形を変えて続けられた。19世紀半ばには土地の国有廃止が行われて地主制が浸透し、エジプト経済は綿花農業の利益に支えられて繁栄を極めた。また同じ時期、親ヨーロッパ的な2人の総督、サイード・パシャ、イスマーイール・パシャのもとでスエズ運河が建設され、列強にとってのエジプトの経済的・軍事的な重要性がさらに高まった。 だが、極度の綿花輸出への依存は経済をモノカルチャー化させ、それにともなってエジプト経済は外国の景気変動に極度に影響を受けるようになって不安定化した。またスエズ運河の建設はエジプト財政に過大な負担を強いることになり、イスマーイールによる過度の欧化政策にともなう出費とあいまって巨額の対外債務となってエジプトに跳ね返った。 1870年代、南北戦争が終結してアメリカ合衆国産の綿花が国際市場に大規模に流入すると国際綿花価格の下落が引き起こされ、エジプト経済は大打撃を受けた。外債は瞬く間に膨張し、1875年にはスエズ運河会社株をイギリスに売却することを余儀なくされた。借金は国庫の45%に達し、翌1876年、エジプト財政は破産し、財政部門は債権者である列強の管理下に置かれることになる。 しかし、エジプト財政の破綻は1881年、近代化政策にともなう軍隊、学校、マスメディアなどの発達がもたらした新しい社会階層による、エジプト史上初の民族運動を呼び起こした。エジプト生まれのアラブ人将校、アフマド・ウラービー大佐を指導者としウラービー革命と呼ばれたこの革命運動は「エジプト人のためのエジプト」をうたい、オスマン帝国やトルコ人などの外来者を中心とするムハンマド・アリー朝の高官による政治支配や、ヨーロッパ列強諸国による経済支配を打破し、外国支配を排除して立憲制と議会開設を要求し、将校のみならず宗教指導者(ウラマー)、農村や都市の有力者たちを広く巻き込んだ国民運動に発展した。しかし運動がウラービーの陸軍大臣就任、憲法の制定に及ぶと、エジプト財政を支配する列強の介入を招き、1882年にイギリス軍がエジプトに上陸、革命を打倒した。これと同時期に、スーダンにおいてマフディー戦争が勃発し、スーダンはエジプトからマフディーの支配へ移行した(英埃領スーダン)。 イギリスはウラービーをセイロン島に流し、エジプトを軍事占領下に置いた。スエズ運河を通じて繋がったインドを植民地とするイギリスは、大英帝国の生命線であるエジプトの掌握に細心の注意を払った。イギリスによる軍事占領の下でも他の列強諸国の権益が排除されたわけではなく、オスマン帝国の宗主権とムハンマド・アリー朝の政府を温存する一方で、イギリス領事やイギリス人顧問などによる諮問委員会を通じて大きな影響力を確保した。
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